豪州物語

題目の選定



日本とDarwin市

熱帯性樹木に囲まれる政府の建物  撮影:2010/09/20
熱帯性樹木に囲まれる政府の建物 撮影:2010/09/20

ダーウィンは、オーストラリア大陸ノーザンテリトリー(Northern Territory)の州都で、北部特別地域とか北部準州と呼ばれる。20世紀の初頭から長いあいだ連邦政府の直轄地域であったが、1978年に準州の地位を認められ自治権を獲得した。熱帯性気候のダーウィンでは市内の官公庁街にもヤシなどの熱帯性樹木が見られる。

キャノンボールの大木  撮影:2010/09/20
キャノンボールの大木 撮影:2010/09/20

街からそれほど遠くない植物園に行けば沢山の珍しい熱帯性植物に出会える。その中にキャノンボール(大砲の弾)と呼ばれる大木があった。

キャノンボールの花と実  撮影:2010/09/20
キャノンボールの花と実 撮影:2010/09/20

その名のとおり球形の大きな実が長い枝に沢山ぶら下がっている。一本の木で百を超える花が咲き実になるという。動物の餌に使われることはあるが匂いが強く人間の食用に供されることはない。美しい花のほうは装飾用として使われる。

ダーウイン駅で出発を待つ大陸縦断鉄道の旅客列車  撮影:2010/09/22
ダーウイン駅で出発を待つ大陸縦断鉄道の旅客列車 撮影:2010/09/22

ダーウインと南オーストラリア州の州都アデレードを結ぶ大陸縦断鉄道の旅客列車はザ•ガン(The Ghan)という愛称を持つ。昔、内陸部を行く荷物の運搬や探検隊の支援に従事した駱駝の御者にはアフガン人が多くこの愛称の由来となった。機関車の前面や客車の側面に駱駝と御者を描いたシンボルマークが付いている。縦断鉄道のほぼ中間点にあるアリススプリングスは北部準州の内陸部にあたり砂漠気候に変わる。ここまでは南のアデレードからはやくも1929年に鉄道が開通していたが、ダーウインまで延長できたのは2003年で、翌年の2月から総延長2,979 kmの2泊3日の運行が開始した。長い長い列車の後方にはプラットフォームがなく、梯子を使って乗車する。

ダーウインからティモール海を望む  撮影:2010/09/20
ダーウインからティモール海を望む 撮影:2010/09/20

ダーウインは内陸長距離鉄道の起点であるとともに、大陸の北の玄関口となる海港都市でもある。インド洋と太平洋をつなぐティモール海に面し約80 kmの沖合にはオ-ストラリアで二番目に大きいメルヴィル島がある。その北方にはインドネシアやパプアニューギニアなどの島々が横たわる。

オ-ストラリア人にとってダーウインは、1942年2月の日本軍による空爆と1974年12月のサイクロンによる甚大な被害を思い起こす場所である。日本軍空爆は、オーストラリアにとって初めての外国からの武力攻撃であった。零戦の一機がメルヴィル島に不時着し、飛行士「南忠男」がオーストラリアにおける日本人捕虜第一号となる。

ダーウインの海軍基地  撮影:2010/09/20
ダーウインの海軍基地 撮影:2010/09/20

ダーウィンは海軍基地としての重要な役割を担っているが、1942年2月19日の日本軍の空からの攻撃時にはさしたる防御設備はなく、現地時間の午前10時と12時の2回にわたっておよそ150機の戦闘機や爆撃機などの飛来を許した。出動したのはハワイの真珠湾攻撃を行なった連合艦隊主力部隊の南雲機動部隊で、真珠湾奇襲から数えて73日後の攻撃にあたる。

日本軍による初めての空爆を解説する案内板  撮影:2010/09/20
日本軍による初めての空爆を解説する案内板 撮影:2010/09/20

海軍基地が垣間見える丘に1942年の日本軍の空爆を説明する案内板が掲げられている。ダーウインの防衛施設の歴史が概説されていて、1920年代の海軍の給油タンクの建設から始まったことがかかれている。

日本軍空爆を解説する案内板(続き)  撮影:2010/09/20
日本軍空爆を解説する案内板(続き) 撮影:2010/09/20

何枚かある案内板のなかで日本軍の空爆に直接関係するものとしては、1941年12月12日にダーウインの市民に避難命令が発せられたことと、1942年1月下旬にジャワ島にあった連合軍指令官がダーウインにいた軍隊をティモール海の防衛に向けて移動するよう要請したことが記載されている。これが日本軍の空爆時に防御が手薄になっていた一因かもしれない。連合軍の構成として米英豪に加えてオランダが入っている。オランダは1940年5月にすでにドイツに降伏していたが、オランダ領インド(現在のインドネシアにほぼ同じ)はまだオランダ亡命政府の傘下にあった。連合軍指令官の要請は、1942年1月11日に始まった日本軍のオランダ領インド侵攻が拡大していった時期に一致している。ジャワ島の連合軍は3月9日に降伏する。

ダーウイン市民に12月12日に発せられた非難命令は真珠湾攻撃の4日後であり、遠く離れたダーウインにはやくも戦雲が垂れこめていたことを示している。市民の避難は1942年2月18日の昼までに完了したと記載されているが、これは日本軍空爆の前日にあたる。

戦時捕虜は偽名を使うことが多く、メルヴィル島に不時着した零戦飛行士の「南忠男」も偽名であった。1943年8月5日に、オーストラリア内陸部にあるカウラの捕虜収容所で日本兵の集団脱走事件があった(別稿、日本とCowraを参照)。その時、突撃ラッパを吹いたのが「南忠男」、実名「豊島一」であった。中野不二男のノンフィクション作品、「カウラの突撃ラッパ 零戦パイロットはなぜ死んだか」は、オーストラリアと日本に残る膨大な資料を精査してこの暴動の背景に迫る興味ある記録である。

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