中国見聞

題目の選定



江南(3): 水上都市蘇州

蘇州は「呉越同舟」で知られる呉の都であった。この話は、三国時代(220-265)の呉ではなくもっと古い春秋時代(770-476BC)のことであり、この時代の呉王、夫差の墓所が市の西北部の虎丘にあった。

虎丘をめぐる小運河  撮影:2005/03/30
虎丘をめぐる小運河 撮影:2005/03/30

蘇州は東西に湖を配し、西のそれは有名な太湖である。北には長江(揚子江)が流れ、杭州から北京にむかう大運河が市中を抜け、さらに小運河が網の目のように縦横に走っている。昔の城壁は都市開発にともないほとんど撤去されたようであるが、外堀をめぐる船から一部を眺めることができた。昔は城壁のなかにも堀があって船が直接人や物を城内に運び入れることができたとされる。

城の外堀をめぐる運河  撮影:2005/03/29
城の外堀をめぐる運河 撮影:2005/03/29

人家の間にも小運河があり、大量の水を運んでくる長江デルタに都市を開発するには、このように掘を作って水を誘導し、掘り出した土砂の上に家を建てるしか方法がなかったのであろう。家の下には長方形の石が高く積み重ねられており、それが直接堀の側面となっている。

人家のあいだの小運河  撮影:2005/03/29
人家のあいだの小運河 撮影:2005/03/29

602年に即位した隋の煬帝は、父王(文帝)によってすでに完成されていた運河(淮水-長江)をさらに延長開発すべく、長江と杭州、黄河と淮水、黄河と北京方面をつなぐ運河の建設をおこなった。この時の運河は、現在の杭州と北京をほぼ直線的に結ぶものとは異なって、あくまでも黄河の中流にある隋の都、洛陽を出発点に考えるものであった。つまり、洛陽から北と南へ行く内陸コースで、およその推定を現在のコースと一緒に前に記したが(西安への道)、下にもう一度示した。

全長2500キロを超えた運河は610年に完成したというから、既存の小運河も利用したであろうが、大変な突貫工事である。秦、漢の古代統一王朝の後、再び中原に統一王朝を再現するには、江南の豊富な食料の確保が必須であり、洛陽から北への運河の建設は高句麗遠征のためであったとされている。

寒山寺の鐘楼  撮影:2005/03/29
寒山寺の鐘楼 撮影:2005/03/29

「楓橋夜泊」
月落烏啼霜満天
江楓漁火対愁眠
姑蘇城外寒山寺
夜半鐘声到客船

「月落ち烏啼いて霜天に満つ
江楓漁火愁眠に対す
姑蘇城外の寒山寺
夜半の鐘声客船に到る」

「楓橋夜泊」は、科挙の試験に失敗して故郷に帰る途中の張継が、蘇州で落第の悲しみをうたった七言絶句である。失意の張継が乗っている客船に、夜半、寒山寺の鐘の音が聞こえてきたというものである。寒山寺は、森鴎外の「寒山拾得」という二人のお坊さんの小説でもなじみ深い寺であるが、あとで地図を見ている時に、寺のすぐ横を大運河が走っていることに気がついた。「姑蘇城外寒山寺」という言葉は、昔、姑蘇と呼ばれた城郭都市の蘇州、その城外(郊外)にある寒山寺ということのほかに、客船が大運河のほとりに停泊したことをも想像させてくれる。張継は唐代の人であるから、長安まで試験を受けにいったのであろうか。この寺は、張継が後に試験を首席で合格したことにより有名になった。科挙の合格者の平均年齢は30歳以上だったということをどこかで読んだ記憶があるが、それだけに合格者の詩は寺を有名にする力をももっている。官僚選抜試験にしては文学的才能を特別扱いするという批判もうけた科挙制度であるから、詩人張継というよりも、当時の知識人にはこのような文学的才能が必要であったと言うほうが適切であろうか。寒山寺は除夜の鐘を聞きにくる人で賑わう。 張継の詩や寒山寺縁起は、オーストラリアからの観光客にはあまり興味のない話である。同行の人たちからぬけだして急いで行ってみた。境内にある張継の詩碑や、寒山と拾得を描いた絵に出会えたときは本当に嬉しかった。

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