中国見聞

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江南(1):霊隠寺と古代の日本

江南つまり長江(揚子江)の南へは桂林から空路で杭州(Hangzhou)に入った。北京から鉄道で来る場合は、長江を渡るとすぐ南京で、蘇州、上海を経て杭州に至る。数日後、蘇州-上海間でこの汽車旅行をする機会があった。南京は何度か国都となることがあったが、杭州の場合は一度だけ北方から江南に逃れてきた宋室の臨時の国都となったことがある(南宋、1127-1279)。元王朝時代(1279-1368)に中国にやってきたマルコ ポーロが、杭州の繁栄ぶりに驚き世界最大の都市と賞賛したことが知られる。マルコ ポーロという名のホテルで昼食をとった。

杭州での2日は雨模様で、西湖の姿は霧のかなたに霞んで見えず、ただ湖畔の柳の新緑が美しかった。市内から霊隠寺(Lingyin Si)への快適な自動車道は霊隠路と呼ばれ、寺の威厳と名声を伝えていた。中国で十指にはいる名刹という。予想通り私たちの乗ったバスの運転手は駐車場を確保するのに一悶着をおこしたし、境内も内外の観光客であふれていた。大都市上海が近いせいもあろう。駐車場からの参道にはみやげものを売る店が建ち並んで日本の観光地とかわらぬ風景であった。

観光客で賑わう霊隠寺の境内  撮影:2005/03/27
観光客で賑わう霊隠寺の境内 撮影:2005/03/27

歴史書は中国に仏教が到来したのを後漢の第二代明帝の治世(57-75)とするが、霊隠寺は326年にインドからきた仏僧によって開かれたという。古色蒼然の古刹というより、赤や緑の装飾のせいか華やいだ雰囲気であった。大仏殿の仏像は中国にある坐像のなかでは一番大きなものと聞いたが、写真撮影は禁止されていた。境内の奥に進むにしたがい人の数が減りはじめたが、思いがけなくも空海(弘法大師)の金色の銅像が立っていた。日中友好30年を記念して日本の友好団体が2002年11月に建立したとあった。

霊隠寺の境内に建つ空海の銅像  撮影:2005/03/27
霊隠寺の境内に建つ空海の銅像 撮影:2005/03/27

804年遣唐船に乗って九州を船出した空海らの一行は、いうまでもなく唐の都、長安(西安)をめざしたが、最澄の乗った第二船だけが目的の明州(現在の寧波)に着き、空海の乗った第一船ははるか南、福州(Fuzhou)に近い赤岸嶺というところに漂着し、第三、四船は行方不明になったといわれている。杭州湾の南に広がる陸地の東の端が明州であり、もし屋久島、奄美などの南西諸島を伝って南下したとすれば、明州はほぼ真西に位置する。明州は唐代にすでに貿易港として栄え、明代にはその世界貿易を預かる重要な港であった。空海は赤岸嶺から長安への道中この杭州の霊隠寺で就学した。

秦(紀元前221-207)に始まった中国の統一王朝は、西暦元年をはさむそれぞれ約200年の前漢(207BC-8AD)、後漢(25-220)の後で一応終わり、再び群雄割拠の時代が始まる。晋による短期間(280-316)の統一があるものの、隋(581-618)、唐(618-907)の中世統一王朝が成立するには約350年を要した。これらの統一王朝の政治の中心は、黄河の中流(中原)にある長安(西安)あるいは洛陽であり、日本との関係は、例えば、福岡県の志賀島で発見された「漢委奴国王」と記された金印は、紀元57年に後漢の光武帝が与えたとされていることや、遣隋使、遣唐使の派遣でよく知られている。後漢の崩壊に続く魏、蜀、呉の三国鼎立時代(220-265)に、華北を支配した魏の都(洛陽)に倭の女王卑弥呼の使者が入貢した(239)という記録もある。

晋の崩壊(316)の頃に始まった華北の混乱は、主として匈奴をふくむ五胡と呼ばれる北方遊牧諸民族の中原への侵入によるものであった。国内の分立が進行するなか、日本の入貢先は江南に移ったようである。建康(南京)には、東晋さらに六朝とよばれる宋、斉、梁などの短命王朝が存続する。日本はこれらの王朝から倭国王の称号を授けられているし、宋への入貢は、隋、唐時代をうわまわったとされる。斉朝なって上梓された宋書には、日本人の書いた最古の漢文とされている雄略天皇の国書(478年)のことや、大和朝廷の使者が高句麗のさまたげにあって往来がおもうようにゆかないと述べたことが記載されているそうである。一般に、江南の漢字の発音(呉音)の伝来が、遣隋使、遣唐使による中原の漢音の伝来に先んじたと言われるが、仏教の経典が呉音で読まれることが多いということを霊隠寺で思い出した。

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