中国見聞

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三蔵法師と大慈恩寺

西安の城壁の南門の一つからまっすぐ南に走る大路を3キロ行くと大慈恩寺に到達する。この寺の境内に、インドを旅した玄奘が長安にもちかえった経典やその翻訳本を収容したという大雁塔があった。七層からなる64mの塔は、境内にあるほかの建物とは異なる赤みがかった茶色の煉瓦でできていた。

西安大慈恩寺  撮影:2005/03/23
西安大慈恩寺 撮影:2005/03/23

玄奘は三蔵法師ともよばれるが、三蔵法師とはもともと釈迦の教え「経」、仏教者の守るべき戒律「律」、経と律の研究「論」に精通している僧を示す普通名詞だそうである。日本では、一般には、三蔵法師といえば玄奘ということで通るようである。鎖国政策下の唐で、何度出国申請しても許可が得られず、玄奘はとうとう27歳(629年)の時に蜜出国して天竺(インド)にむかった。なぜそれほどまでに天竺行きをのぞんだのであろうか。既存の仏教にたいする疑問から原典に接したいと願ったにちがいない。後漢(25-220)以後から唐までの歴史は、伝統的な儒教主義の政道が、シルクロードを伝って流入する外来仏教の影響によって揺れ動いたとみることもできる。南北朝(439-589)、隋(589-618),唐(618-907)の理解は、仏教を無視しては不可能とする歴史家もある。

西安大慈恩寺の大雁塔  撮影:2005/03/23
西安大慈恩寺の大雁塔 撮影:2005/03/23

玄奘は43歳になった645年に帰還したが、出国の時とはうってかわって、帝(太宗)が国境まで出迎えを配するほどの歓迎ぶりだったといわれている。20年近くの時が過ぎて、仏教のみならず西域に関する一般情報が必要とされていたにちがいない。時の皇太子(のちの高宗)が亡くなった母のために648年に創建したのが大慈恩寺で、大雁塔はそれから4年後に建立された。現在の塔は明代に改装されたらしいが、火災から経典などを守るために、おそらく最初から煉瓦作りであったのではないだろうか。煉瓦の色もその並べ方も簡素な美しさをみせていた。これが、歴史書に磚(せん)と書いてある黄土を焼成してつくった煉瓦なのであろうか。玄奘は62歳で亡くなるまで経典の翻訳に没頭して、伝道などの他事は高弟の慈恩大師,窺基(きき)にまかせたということである。それでも梵語(サンスクリット)の翻訳は半分もできなかったという。大般若経600巻は日本の般若心経の基となったとされている。玄奘以前の仏典翻訳は旧約(くやく)、以後は新約とよばれるのだそうで、画期的な翻訳事業であったこと、唐代の仏教興隆の基礎をなしたことを伺い知ることができる。孫悟空のでてくる西遊記が、玄奘の書いた大唐西域記をもとにして、明代にできたお話であることや、日本の薬師寺、興福寺、法隆寺などが、慈恩大師が師の教えをもとに開いた法相宗(ほっそうしゅう)を宗旨とすることもよく知られたところである。

江澤民が書いた大慈恩寺の額  撮影:2005/03/23
江澤民が書いた大慈恩寺の額 撮影:2005/03/23

現代の中国共産党の仏教政策については詳らかではないが、共産主義が宗教にたいして寛容であったとは考え難い。寺の入り口には、2003年まで約10年ほど国家主席をつとめた江澤民の書になる額がかけてあった。ゆきすぎた政策をそれとなく修正する動きなのであろうか。今後の政治、社会変化との関連で大変興味深い。

大慈恩寺を訪れる軽装の若者達  撮影:2005/03/23
大慈恩寺を訪れる軽装の若者達 撮影:2005/03/23

大慈恩寺を訪れる人のなかには軽装の若者もおおく、あきらかに地元や近隣の町からの参詣者と思えた。玄奘の功績を賞賛する伝統は主義、主張を超えて現代に続いているのであろう。

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