東ヨーロッパ紀行

題目の選定



(3)ハプスブルグ領スロヴァキア

前半の旅を案内したガイドと運転手さん  撮影:2014/04/30
前半の旅を案内したガイドと運転手さん 撮影:2014/04/30

ブダペストでの二日間の滞在が終わっていよいよバス旅行が始まった。前半「東欧ハイライト」後半「東欧発見」とどちらも「東欧」と銘打った観光であるが、一昔前のヨーロッパの共産主義国という東欧の概念はすでに古臭くなったのでその辺りが旅のねらいといえる。特に後半は、最近なってようやく観光旅行が出来るようになったところが多い。30年近い経験を有する前半のガイドさんは、鉄のカーテンの背後の事情にも詳しく興味深い話を披露してくれたが、後半の旅は本当に「東欧発見」となる筈ですよとコメントした。第一級の知識と明瞭かつ美しい英語は旅のボーナスとなった。運転技術抜群の運転手さんは、通り抜けられそうにない細い道でも見事なハンドル裁きを発揮する人で、旅行中何度も乗客の悲鳴のあとに拍手喝采を浴びた。

不必要となったハンガリーとスロヴァキアの国境設備  撮影:2014/04/30
不必要となったハンガリーとスロヴァキアの国境設備 撮影:2014/04/30

ブダペストから北上して僅か1時間半でスロヴァキアとの国境を通過した。スロヴァキアは長期に亘るハンガリー王国やハプスブルグ家の支配下の後、第一次大戦後の1918年にはチェコと合併したチェコスロヴァキアとして独立するが、自治を確立するには至らなかった。第二次大戦中はナチスドイツの統制下にあり、戦後は東欧諸国に共通の共産党の支配下になる。ビロード革命 (1989)を経て初めて共産党の支配が終わり、1993年のスロヴァキア共和国の誕生となる。スラヴ系の国としては第一番に2004年にEUに加盟した。ハンガリーと同じEU圏内の移動であるから昔の国境はあっというまに通過していった。次のスロヴァキアとポーランドとの国境も同様となる。

13世紀に創建されたオラヴァ城  撮影:2014/04/30
13世紀に創建されたオラヴァ城 撮影:2014/04/30

東西400キロ南北200キロの小国を縦走する一日は、途中の休憩や昼食時間を除くと、約5時間の行程で一日中新緑の山あいの道を進んだ。途中オラヴァ城が窓外に見えた。この城は、吸血鬼ドラキュラをあつかった1922年の映画「吸血鬼ノスフェラトゥ」の撮影に使われた。著作権の関係でドラキュラという題名は使えなかったといわれる。このあたりは13世紀中葉にモンゴリアが侵入てきた土地であるがその後に創建され、何度かの改築を経て今の形になった。オラヴァ川にそう岩壁の上に中世の趣のある美しい姿をみせていた。

残雪の残る国境のタトラ山脈  撮影:2014/04/30
残雪の残る国境のタトラ山脈 撮影:2014/04/30

古い木造建物が残る村での小休止がすむと、スロヴァキアとポーランドとの国境を形成するタトラ山脈が見え始めた。国境の町には換金設備のある店があり、残ったハンガリーのお金で飲料水を買ったりユーロに換金するなどの小休止となった。そこからポーランドでの最初の宿泊地クラクフまでは僅か1時間半の道程であった。

ブラティスラヴァ城の下を流れるダニューブ川  撮影:2014/05/10
ブラティスラヴァ城の下を流れるダニューブ川 撮影:2014/05/10

前半の14日の旅が終わりに近づいて最終地ウイーンでの二日を残すのみとなった時、希望者向けに、スロヴァキアの首都ブラティスラヴァへの半日観光があった。10日ほど前にブダペストからクラクフへ向かって僅か5時間で走り抜けただけの国であったので時宜を得た企画であった。ウイーンからのバスは1時間余りでブラティスラヴァに到着した。 最初に訪れたブラティスラヴァ城はダニューブ川を見下ろす丘にあった。川を下ればブダペスト遡ればウイーンである。1972年に開通した"New Bridge"も見え、橋塔の頂部にある名の知れたUFOレストランも遠望できた。第二次大戦中の1944年に、ドイツ傀儡政権に対して起こったスロヴァキア民衆蜂起の頭文字をとって "MOST Bridge"と改称することが2012年に決定されたようである。

ブラティスラヴァ城とスヴァトプルクの像  撮影:2014/05/10
ブラティスラヴァ城とスヴァトプルクの像 撮影:2014/05/10

ブラティスラヴァ城は、西暦1000年頃にハンガリーが正式な王国として出発する前から、ハンガリーの北辺の要塞としての役割を果たしていた。オスマントルコの侵略によってハンガリー王国は東南部と中部の三分の二を失い、残る三分の一の北西部がハプスブルグ家の支配下に入った。1541年には陥落したブダに代わってブラティスラヴァがハプスブルグ領ハンガリーの首都となった。ハプスブルク家は皇帝としてではなくあくまでハンガリー王としての資格で統治を行い、最初のハンガリー王としてマクシミリアン2世が1563年に戴冠した。それから約200年後、女帝マリア•テレジアの時代に最盛期を迎え、ブラティスラヴァ城は女帝の好んだ居城となった。

ブラティスラヴァ城の前庭にスヴァトプルク (846 – 894)の像があった。ハンガリーの勢力が及ぶ以前にあったスラヴ系のモラヴィア王国を代表する人物である。スヴァトプルクの像は、2010年の城の改装工事の際に新しく建立されたもののようで, "New Bridge"が "MOST Bridge"と改称された例でもみたように、1993年誕生の新生スロヴァキアに独自の民族色を創出しようとする試みと思える。

ブラティスラヴァ城の背後にある聖マルティン聖堂  撮影:2014/05/10
ブラティスラヴァ城の背後にある聖マルティン聖堂 撮影:2014/05/10

ブラティスラヴァ城のある丘の麓にひときわ大きな聖マルティン聖堂が鎮座している。初代マクシミリアン2世を始めとして歴代のハンガリー王 (女王)の戴冠式はこの聖堂で行われた。聖堂の尖塔には黄金食の王冠が輝いて歴史的役割を伝えている。マリア•テレジアの長子ヨーゼフ2世の1784年に首都は再びブダに戻る。

旧市街より望むミハエル門  撮影:2014/05/10
旧市街より望むミハエル門 撮影:2014/05/10

中世の城壁都市ではその出入りは城門を通らなければならない。ブラティスラヴァでは北にあったミハエル門だけが残っている。現在の姿は18世紀中葉に改築されたもので、門外には楼門や堀に架けられた橋も残っている。ミハエル門を潜って旧市街に足を踏み入れると大邸宅や宗教建築が所狭しと軒を連ねるが、ハプスブルグ女帝マリア•テレジアの時代(1740 – 1780)に建築、改築されたものが多く、ブラティスラヴァの最盛期の面影を色濃く残している。

幼いモーツアルトが演奏を行なったパルフィ邸  撮影:2014/05/10
幼いモーツアルトが演奏を行なったパルフィ邸 撮影:2014/05/10

ミハエル門の近くにあるパルフィ邸は、マリア•テレジア軍の大将をつとめたパルフィ伯爵の住居で、1747年建造のバロック様式の建物である。ウイーンにあるマリア•テレジアのシェーンブルン宮殿と同じ色調の彩色が施されているのは当然ということであろう。ヨーロッパでは、このような大きな建物に ”Palace” という呼称がよく使われているが、この建物もPalffy Palaceである。”Palace” は「宮殿」としたいところだが、国家元首や政府の高官あるいは司教など社会的に高位の身分を有した人の住居という意味合いもあるので「パルフィ邸」というのが良さそうである。1762年に当時6歳のモーツアルトがここで演奏をおこなったという案内板があった。ハイドン (1732 – 1809) やベートーヴェン (1770 – 1827) の足跡も残る町であった。

ブラティスラヴァ最古の宗教建築フランシスコ教会  撮影:2014/05/10
ブラティスラヴァ最古の宗教建築フランシスコ教会 撮影:2014/05/10

ブラティスラヴァで最古の宗教建築は1297年に完成したフランシスコ教会であった。ハンガリー王のボヘミアに対する戦勝を記念して建造されたと伝えられている。ゴシック、ルネサンス様式を経て18世紀に現在のバロック様式となった。歴代のハンガリー王は、聖マルティン聖堂で戴冠式を終えるとこの教会へ進み、騎士への称号授与式を執り行なったという。

フランシスコ教会の影を写すミルバッハ邸  撮影:2014/05/10
フランシスコ教会の影を写すミルバッハ邸 撮影:2014/05/10

フランシスコ教会の前に、ブラティスラヴァで最も典雅な建物の一つとされるミルバッハ邸があった。華麗なバロック様式に比べてより繊細とされるロココ様式の建物で、醸造家の邸宅として1770に完成した。この館の最後の持ち主ミルバッハ (Mirbach) は、1945年のソ連赤軍侵攻の際に殺害され、建物も彼の収集した美術品も没収された。現在はブラティスラヴァ市立美術館となっている。

旧市街の中央広場と旧市庁舎  撮影:2014/05/10
旧市街の中央広場と旧市庁舎 撮影:2014/05/10

旧市街中心にある広場は、高い塔をもつ旧市庁舎のほかに大使館として使われている幾つかの古い建物で囲まれている。広場の中央にある給水設備は、ハプスブルグ家からの最初のハンガリー王マクシミリアン2世が1572年に設置したと伝わる。

旧市庁舎はいくつかの建物が連結された複合体で、角に立つ石造りの塔の部分が最も古く1370年頃の建物とされる。旧市庁舎は現在は市立博物館となっている。市庁舎の塔の左横に見える白いジェスイット教会は、カトリック教徒の多いこの土地に初めてできたプロテスタント教会で、1636年のことであった。尖塔や通りに面する入口の建設は許可されなかったという。近くにあるフランシスコ教会が装飾の多いバロック様式教会であったのに比べると、今も質素な佇まいを見せている。教会と旧市庁舎の塔の間には細い路地があり、それを抜けると、かっての大司教の館で現在の市庁舎が現れる。

中央広場の一角にある銀行とレストラン  撮影:2014/05/10
中央広場の一角にある銀行とレストラン 撮影:2014/05/10

旧市庁舎に対峙する位置に華麗な建物がある。左側が外国為替銀行で、右隣はマクシミリアンという看板のかかったレストランである。この建物の設計者は、ヨーロッパ中に宮殿などの豪華な大建築を残したルムペルマイヤー(Viktor Rumpelmayer, 1830 - 1885)で、ブラティスラヴァで生まれ、19世紀後半に活躍した人物である。旅の後半、ブルガリアの首都ソフィアで、彼の設計した王宮で現在はブルガリア国立美術館となっている建物に出会うことになった。

レストランにあったハプスブルグ王妃エリザベートの肖像画  撮影:2014/05/10
レストランにあったハプスブルグ王妃エリザベートの肖像画 撮影:2014/05/10

マクシミリアンレストランは外観に劣らぬ美しい内装をもち、店内の奥にハプスブルグ王妃エリザベートの肖像画が飾られていた。オーストリア=ハンガリー二重帝國成立時、ハンガリーの自治権獲得に協力を惜しまなかった人物として知られ「シシィ」の愛称をもつ。ハプスブルグ帝國の実質上最後の皇帝フランツ•ヨーゼフ1世 (在位 1848 - 1916)の妃であるが、規則ずくめのウイーンの宮廷生活よりもハンガリーの風土と文化を愛し旅することが多かった人物として有名である。ハプスブルグ家からの最初のハンガリー王マクシミリアンの名を冠し、エリザベート王妃の大きな肖像画を掲げたレストランは、オスマントルコの侵略を機に始まったブラティスラヴァとハプスブルグ家との350年にわたる歴史を如実に伝えている。ダニューブ川を下ってきたドイツ人老夫婦と同席して短時間の昼食を楽しんだ。

ブラティスラヴァ大司教宮, Primates  Palace  撮影:2014/05/10
ブラティスラヴァ大司教宮, Primates Palace 撮影:2014/05/10

現在の市庁舎は、ブラティスラヴァ大司教の執務用としてこれもまたマリア•テレジア時代に建設が始まった建物で、また “Palace” にお目にかかった。ネオクラシック様式のピンク色の壮麗な建物で、大司教を象徴する冠と黒い帽子の飾りが建物の上に置かれている。市長の執務室があるほかに、1805年にプレスブルグ講和条約の締結が行われた「鏡の間」 がある。ハプスブルグ帝國は国内のアウスレルリッツ (現チェコ領)の戦いなどでナポレオン軍に敗れ、当時プレスブルグと呼ばれたブラティスラヴァで和平交渉が行われた。旧称プレスブルグはドイツ語、マジャール (ハンガリー) 語ではポジョニとなり、千変万化のヨーロッパの国名、人名は難しい。

スロヴァキア国立劇場  撮影:2014/05/10
スロヴァキア国立劇場 撮影:2014/05/10

昼食を含む約3時間の旧市街散策は、スロヴァキア国立劇場のある広場で終わった。ネオルネッサンス式の豪華な建物は1886年に完成した。時代はハプスブルグ帝國の終焉にむかう不安定な時代であったが、政治的混迷の反動としてかウイーンでは世紀末ウイーンとも呼ばれる文化の爛熟期を迎えていた。ブラティスラヴァでもウイーンの香りが最後まで残ったものと想像される。旅慣れた同行の一人がこの町に泊まったらどんなにいいだろうと呟いた。同感であった。外から建物を眺めるだけの慌ただしい半日の後、午後のウイーン旧市街散策の予定にあわせてブラティスラヴァを後にした。

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