東ヨーロッパ紀行

題目の選定



(6)苦節400年の首都ワルシャワ

雨に煙るワルシャワでの宿  撮影:2014/05/03
雨に煙るワルシャワでの宿 撮影:2014/05/03

ワルシャワでの観光は雨の一日となった。バスからの視界も悪く、強い雨をさけてバスに逃げ込むこともあった。当日は由緒ある憲法記念日で、街の至る所に赤と白の国旗が飾られていた。祝賀行事の準備を行なっている街の雑踏を避けつつ歩くことにもなった。12年前(2002年6月)に訪れたワルシャワは晴天で、その折の写真を幾つか選んでこの稿を完成させた。

ワルシャワ旧市街の中核をなす王宮   撮影:2014/05/03
ワルシャワ旧市街の中核をなす王宮 撮影:2014/05/03

ワルシャワは長くマゾフシェ公爵領であったが、公爵家の断絶(1526)に伴い王領に編入された。以後、公爵の居城が王宮に改築されていく。クラクフからバルト海に向かって北上してきたヴィスワ川の中流域がワルシャワであり、川は市内を貫通し王宮の裏側を流れる。

クラクフに首都があった1569年に成立したポーランド=リトアニア共和国は、ポーランド王を統一君主とする連合体で、制限はあるものの議会制民主主義の形を成した。クラクフからワルシャワへの遷都を決めたジグムンド3世の先王ジグムンド2世の時代に成立した。ジグムンド3世が改築された王宮からの統治を開始するのは、遷都を決めてから15年経った1611年になる。ワルシャワ遷都以前、マゾフシェ公爵の居城を中心として発達した中世の街並みが、現在旧市街と呼ばれる地域である。旧市街の北側にその後に発達した新市街が続き、新旧あわせてユネスコのワルシャワ歴史地区の中心を成している。両地区はワルシャワ市の北部にあり、中心部および南部に向かうクラクフ郊外通りと新世界通りに沿っても歴史遺産が並んでいる。

王宮前広場に建つジグムンド3世の記念塔  撮影:2002/06/06
王宮前広場に建つジグムンド3世の記念塔 撮影:2002/06/06

王宮前広場の中央にジグムンド3世の像を頂く22mの高い記念塔がある。王は右手に刀を携え左手に身の丈より高い十字架を支え持っている。近隣諸国のカソリック化をめざし対外戦争に生きた王の生涯を象徴する姿である。ジグムンド3世の息子ヴワディスワフ4世によって1644年に建立されたが、この王もまた父王と同じような生涯を送った。

ジグムンド3世は、即位(1592)するとすぐに生まれ故郷のスウェーデン(スウェーデン国王としての名はシギスムント)との三国同君連合体を形成してスウェーデンのカトリック化をめざしたが、摂政でプロテスタント教徒の叔父カールの起こした反乱を鎮圧できず、ポーランド=スウェーデン連合は1599年に解消する。

ジグムンド3世時代のポーランド=リトアニア共和国は、現在のベラルーシ、ユクライナをも含む超大国であった。ベラルーシの東隣モスクワ大公国(ロシア帝國の前身)に遠征した、後のヴワディスワフ4世は、カトリック化とポーランド=リトアニア=ロシア同君連合を目論んだがその目的は成就せず撤退する(1612)。しかし、1610年からロシアの君主を意味するツァーリを名乗っていた称号を放棄するかわりとして広大なロシアの領土を獲得する。

ヴワディスワフ4世(即位1632)は父王ジグムンド3世の失ったスウェーデン王位を奪回しようとして対スウェーデン戦争を始め、停戦合意に持ち込んだ後にもスウェーデンを仮想敵国とする海軍増強計画をたてたり、対オスマン帝國戦争の構想を抱いたりするが、これらは議会の反対により頓挫する。大洪水と呼ばれるスウェーデンからの侵入を目前にヴワディスワフ王はこの世を去る(1648)。

憲法記念日式典に向かう軍楽隊  撮影:2014/05/03
憲法記念日式典に向かう軍楽隊 撮影:2014/05/03

雨のワルシャワ市内で垣間見た憲法記念日式典の準備の様子は、この国の立憲君主制を考える好機となった。1791年に制定されたこの憲法は「五月三日憲法」と呼ばれ、立憲君主制を記した世界初の成文憲法である。憲法成立の背景には、ポーランド=リトアニア共和国の衰退があった。当時は、東にあるロシア帝國と西にあるプロイセン王国の強大化の時代で、この趨勢はポーランド分割によって加速していく。

ロシアのエカチェリーナ2世はかっての愛人で親露のポーランド貴族スタニスワフを王にする(在位1764–1795)などの内政干渉を行なっていた。王の時代に、南西にあるオーストリア(ハプスブルグ帝國)も加わって三国が自国に隣接する地域を獲得する第一次分割がおこった(1772)。国の衰退を止めるための国内改革が必要と考えたスタニスワフ王は、緩やかな連邦制であったポーランド=リトアニア共和国を、行政上効率よい単一国家でしかも議会制民主主義の立憲国家を保障する「五月三日憲法」の法案を国会に提出したのであった。

国内の民主化にもかかわらず、ポーランド分割はさらに進み、ロシアとプロイセンによる1793年の第二次分割となる。絶対王政に反対するフランス革命の混乱のさなか、オーストリアには分割に参加する余裕がなかった。2年後の1795年に再び三国による分割が起こって、200年以上の長い歴史を誇った第一共和国は完全に消滅した。

憲法記念日式典に集う参加者  撮影:2014/05/03
憲法記念日式典に集う参加者 撮影:2014/05/03

フランス革命後の混乱期に始まったナポレオン戦争のさなか、ナポレオンは1807年にプロイセン王国を割譲してワルシャワ公国を創出する。束の間のポーランド王国の復活であった。ナポレオンがロシア遠征に失敗し、ナポレオン戦争の戦後処理のために開催された1815年のウイーン会議で、ワルシャワ公国は再びプロイセンとロシアに分割される。憲法記念日式典に集う参加者のなかにはナポレオンの好んだ二角帽を被った人の姿もあった。200年以上前に成立した「五月三日憲法」を祝う式典は、歴史の変遷を再現する時代祭りの様相を呈しているように見えた。

市の中心部にある聖アレクサンドル教会  撮影:2014/05/03
市の中心部にある聖アレクサンドル教会 撮影:2014/05/03

宿泊したホテルの近くに聖アレクサンドル教会があった。ウィーン会議(1815)は、ワルシャワ公国の大部分をポーランド立憲王国とし、ロシア皇帝がポーランド王を兼任すると決めた。会議後まもなく建設されたこの教会が、ロシア皇帝アレクサンドル1世の名を冠している。民族運動を弾圧する専制政治をおこなったとされる皇帝ではあったが、立憲君主制を認めてかポーランド王として戴冠することはなく、代わりに弟のコンスタンチン大公をポーランド総督に任命した。アレクサンドル1世のあとをついだニコライ1世の代に立憲王国から王の直轄統治にかわる(1832)。

ワジェンキ公園の一角にあるベルヴェデル宮殿  撮影:2014/05/03
ワジェンキ公園の一角にあるベルヴェデル宮殿 撮影:2014/05/03

ワジェンキ公園はワルシャワ市最大の公園で、これもホテルから遠くない市の中心部にあった。いくつかの宮殿が公園内にあり、その一つがロシア大公コンスタンチン総督の住んだベルヴェデル宮殿である。士官学校生徒たちによる1830年の11月蜂起(1830)の襲撃を受けた場所としても知られる。この蜂起は、ポーランド軍を派遣して、フランスやベルギーの革命に介入しようとしたロシアの意図に反対するポーランド全土で起こった運動で、憲法を無視するロシア帝國からの独立とポーランド=リトアニア共和国の復活をも目指した。蜂起は翌年に鎮圧される。

ワジェンキ公園にあるショパンの銅像  撮影:2014/05/03
ワジェンキ公園にあるショパンの銅像 撮影:2014/05/03

ワジェンキ公園の中にはショパンの銅像もあり観光客のお目当ての場所である。11月蜂起の知らせを国外で聞いたショパンは、有名な「革命のエチュード」を作曲したと言われる。憲法記念日を祝う胸飾りが雨に濡れるショパンの銅像につけられていた。1849年にパリで亡くなったショパンの心臓は、遺言に基づいて姉がワルシャワに持ち帰った。第二次大戦中に避難のため持ち出された以外は、王宮の近くにある聖十字架教会にアルコール漬けの形で保存されているという。

第二共和国の元首ユゼフ•ピウスツキの銅像  撮影:2014/05/03
第二共和国の元首ユゼフ•ピウスツキの銅像 撮影:2014/05/03

第一次世界大戦(1914-1918)後のヴェルサイユ条約は民族自決の原則を導入した。その結果、旧ドイツ帝國とソ連邦からポーランドに領土が割譲され共和国が復活した。第二共和国である。ユゼフ•ピウスツキが国家元首となり、かつてロシア大公コンスタンチン総督が済んだベルヴェデル宮殿に住んだ。

ピウスツキは、講和会議で得られた領土をさらに東に拡大し、ポーランド第一次分割(1772) 以前の領土を回復しようとして1920年にソ連への侵攻を指揮した。1921年の講和条約締結によってリトアニア中部とウクライナ西部を併合している。ピウスツキは1923年に一度引退を宣言するが、1926年にクーデターを起こして政界に復帰する。1935年にピウスツキが死去し、その後1939年にドイツとソ連のポーランド侵攻が始まり、第二共和国は短い命を終える。ベルヴェデル宮殿は現在ピウスツキ博物館となっている。

ワルシャワ•ゲットーの英雄記念碑  撮影:2002/06/06
ワルシャワ•ゲットーの英雄記念碑 撮影:2002/06/06

ポーランドは異なった民族にたいして寛容な国柄を持っている。ユダヤ人保護の13世紀の条例についてはクラクフの項で言及した。第二次大戦前には、ワルシャワ全人口の3割に相当する38万前後のユダヤ人が旧市街の西側に住み、ユダヤ人共同体組織を形成していた。1939年9月にワルシャワを占領したドイツ軍は、約一か月のうちにユダヤ人共同体本部を占拠する。約一年後の1940年10月に、ユダヤ人を強制的に住まわせる居住地区すなわちゲットーの設置命令がでると、高さ3m、長さ16kmにおよぶ煉瓦塀が設置された。ゲットーには最大で45万人が住んでいたとされるが、推定によるとその約三分の一は病気や飢餓で死亡した。

かってゲットーのあった地域に英雄記念碑が建っている。これは、1943年4月19日に起った武装蜂起の記念碑である。労働力として他の収容所に移送されているのではなく、大量虐殺を目的とする強制収容所 (絶滅収容所とも呼ばれる) への移送であることが判明した後、最後の抵抗手段として武装蜂起が決行された。英雄記念碑は、最初の衝突が起った地点を選んで建立された。記念碑の中央には、蜂起の指導者であったモルデハイ•アニエレヴィッツが配されている。蜂起は約一か月で完全に鎮圧され、生き残ったユダヤ人はワルシャワの北東90kmにあったトレブリンカ絶滅収容所に送られ、そしてゲットーは完膚なきまでに解体されて廃墟となる。ポーランド市民に助けられて生き残ったユダヤ人の数は約2万と推定されている。

第二次大戦末期のワルシャワ蜂起の記念碑  撮影:2002/06/06
第二次大戦末期のワルシャワ蜂起の記念碑 撮影:2002/06/06

1944年6月、ソヴィエト赤軍はべラルーシ内にいたドイツ軍の東部戦線に壊滅的な打撃を与え、さらに西進してポーランド東部に侵攻した。ワルシャワに迫ったソ連軍は市民に蜂起は呼びかけ、これが8月1日のワルシャワ蜂起となった。しかし補給の途絶を口実にソ連軍の進軍は停止した。蜂起に対抗するドイツ軍の砲撃でヴィスワ川の西岸部の約80%が崩壊し、国民軍は戦死者1万6千をだして9月末までにほぼ壊滅した。市民の犠牲者はさらに多く20万前後が死亡したという凄まじさであった。国民軍は1939年に起源をもつ集団で、1942年には40万人に達する武装闘争連合になっていた。ヨーロッパでは、ユーゴスラヴィアのパルチザンに次ぐ大きな抵抗組織であった。

ドイツ軍の砲撃で聖アレクサンドル教会、ベルヴェデル宮殿なども破壊されたが、ワルシャワ市の中心部から北の王宮を含む旧市街地の破壊が最も激しかった。このあたりからの抵抗が最も強くまた長く続いたことを示している。ワルシャワ蜂起の記念碑は、地下水道に逃げ込んで他の拠点に向かうのか、あるいは地下水道からやってきた兵士かと思われる姿も再現している。蜂起が開始した午後5時の1分間の黙祷は今も全市民の恒例行事になっている。

ワルシャワ蜂起後に破壊した旧市街の広場  撮影:1945年1月ごろ
ワルシャワ蜂起後に破壊した旧市街の広場 撮影:1945年1月ごろ

ヴィスワ川の東10kmの地点にいたソ連軍が本当に進撃出来なかったのか、ソ連軍の到着を待つべきではなかったか、ロンドンにあったポーランド亡命政府の主導した武装蜂起は、戦後の共産主義による傀儡政権の樹立を目指すソ連にとっては、民主勢力の芽を摘むという観点から黙殺に値するものであったとか、いまも議論の続く出来事であった。ワルシャワに対する徹底的な破壊攻撃は、単なる戦争遂行ではなく蜂起に対するドイツ軍の報復であったと語り継がれる。

破壊の様子は記録写真を集めた小冊子などによってしか知ることができないほどに、現在のワルシャワには戦争の傷跡はない。映画「戦場のピアニスト」は、破壊の凄まじさを延々と連なる廃墟の市街地を再現して印象的である。監督のポランスキーは、旧東ドイツにあった市街地が開発のために建て壊されると聞き、現場に参加して破壊攻撃を再現したと話している。ポーランド人の助けを受けてゲットーを脱出したピアニストのシュピルマンが、ドイツ軍の攻撃のなかを逃げまわる様子、崩れ落ちた建物のなかで生き延びる姿は、シュピルマンの回顧録に基づいている。

2002年の旅行で配布されたグループ写真は、破壊された旧市街の広場の写真の付いた紙ばさみに入っていた。一時は首都を他の都市に移転しなければという話ももちあがったようであるが、およそ20年で市街の復元を成し遂げた。

雨天と憲法記念日式典のために静まり返った旧市街広場  撮影:2014/05/03
雨天と憲法記念日式典のために静まり返った旧市街広場 撮影:2014/05/03

瓦礫と化した廃墟の街並みを「煉瓦のヒビに至るまで再現した」というのがワルシャワ市民の誇りである。廃墟となった写真と比較すると確かに同じ建物が再現されているが、瓦礫のなかから使用できる煉瓦を拾い出したり、新たに煉瓦を焼いて中世の建物を再現したという逸話が語り継がれる。旧市街の北隣りの新市街も同じように復元された。市内に点在する幾つかの宮殿群もふくむ「ワルシャワ歴史地区」として1980年にユネスコの世界遺産に登録されている。復元は世界遺産に値しないという異論もあったが、「破壊から復元および維持への人々の営み」が評価された最初の世界遺産となった。

ウエディングケーキと呼ばれる文化科学宮殿  撮影:2014/05/04
ウエディングケーキと呼ばれる文化科学宮殿 撮影:2014/05/04

翌日ベルリンにむけて早朝にワルシャワを後にしたが、前日とは打って変わった晴天となって、市街地の中心にある文化科学宮殿がバスからよく見えた。第二次大戦後の冷戦時代、ポーランドがソ連の衛星国であったことを象徴的に示す摩天楼である。スターリンからの贈与という形で1955年に完成した237mもある建物である。完成当時はその高さもあって市民に違和感をあたえたようであるが、いまは近代的な高層ビルに囲まれてその違和感も減少している筈である。

1989年のソ連邦の崩壊によって、第二次大戦後から44年間続いた人民共和国は再び共和国に生まれ変わった。第三共和国はまだ25歳の若い共和国であるが、これまでみてきたように共和国としての歴史は長い。ワルシャワへの実質上の遷都(1611)から数えて400年余り、苦節を乗り越え、伝統ある議会制民主国家を勝ち得た首都である。12年前、ゲットーの英雄記念碑やワルシャワ蜂起記念碑を巡りながら、不幸な現代史を語った地元の女性の頬には涙があった。それは400年の苦節への涙であったかも知れない。ポーランドは2004年にEU加盟を果たし、2009年の世界同時不況時にもヨーロッパで唯一経済拡大を続け、共産圏を意味した東欧を名実ともに脱出した。

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