東ヨーロッパ紀行

題目の選定



(4)ポーランドの古都クラクフ

ヴァヴェル城と宿泊したホテル  撮影:2014/04/30
ヴァヴェル城と宿泊したホテル 撮影:2014/04/30

ポーランドの古都クラクフには、第二次大戦中の被害が比較的少なかった歴史地区が世界遺産に登録されている。最大のお目当てはヴァヴェル城やヴァヴェル大聖堂である。クラコーという呼び名で学んだ都市であるが、外国語のカタカナ表記で長音用に使う「-」に違和感を感じることが多い。実際には長く発音しない場合が少なくないからである。英語読みのクラカウに代えてポーランドでの発音クラクフと呼ぶのが適当であろう。

宿泊したホテルの前には、ポーランド南部に発し北に流れてバルト海に注ぐポーランド最長のヴィスワ川に沿って整備された散策路があった。ヴァヴェル城が見え旧市街へも近い一等地であったが、そのせいでホテルの前の道路は何時も渋滞状態であった。

ヴィエリチカ岩塩坑の入口  撮影:2014/05/01
ヴィエリチカ岩塩坑の入口 撮影:2014/05/01

ヴァヴェル城の観光に先立ってヴィエリチカ (Wieliczka) 岩塩坑の見学に出かけた。1978年登録の世界遺産で、バスで1時間足らずのうちに採鉱所に付きもののリフト操作用の塔が見えてきた。一度に数人しか乗れないリフトに乗って入坑するので、この日は6時半の早起きとなった。建物に入るとかって坑夫が使ったリフトが目の前にあり、およそ100 mほどの深さまで降りていった。

坑道の側壁に見えたカリフラワー状の塩の析出  撮影:2014/05/01
坑道の側壁に見えたカリフラワー状の塩の析出 撮影:2014/05/01

ヴィエリチカでの岩塩の採掘は遅くとも1044年頃までに地元の有力者によって開始されていたと推測されている。1996年に商業採掘を終え、今は見学者向けの3.5 kmの坑道が整備されている。リフトを降りるとしばらくは水平の坑道が続き、時折、古い坑道への入口が現れて採掘年代などが表示されていた。完全に廃坑になったものを除けば現存する世界最古の岩塩坑と見做されている。

地殻変動で海底が隆起した際に陸上に閉じ込められ海水が水分の蒸発によって凝縮されたされたものが岩塩で、地層の圧縮をうけて絞り出されるように塩が析出してくるとされる。坑道の黒い天井に細い縞模様の形で析出したものや、真っ白な一枚岩であったり、まるでカリフラワーのように粉末の集合体のようであったりと様々析出状態が見学できた。

キンガ妃の指輪事件を伝える岩塩の彫像  撮影:2014/05/01
キンガ妃の指輪事件を伝える岩塩の彫像 撮影:2014/05/01

見学路にそって坑夫たちが彫り上げたという多くの彫像が飾られていた。その中の一つがキンガ妃の指輪事件を伝えていた。ハンガリーのベーラ4世 (1206 – 1270)は、モンゴル侵略後の国内の復興を果たした有名な人物であるが、その長女のキンガは1239年にポーランド王妃となる。結婚に気の進まなかったキンガは婚約指輪をハンガリー王国内にあった岩塩採掘坑に捨てていた。結婚後10年くらい経った頃、ヴィエリチカの採掘坑で豪華な指輪が発見され、キンガによって彼女がハンガリーで捨てた指輪と確認される。当時ハンガリーからの塩の輸入に頼っていたポーランドでは、輸入した岩塩がヴィエリチカで一時的に保管されていたことが判明する。ポーランド王室はこれを単なる偶然とせずヴィエリチカでの採掘を進めたところ大規模の岩塩鉱床が発見される。1250年に王立事業となったヴィエリチカ岩塩坑にまつわる逸話である。

樽状になった岩塩と採掘夫  撮影:2014/05/01
樽状になった岩塩と採掘夫 撮影:2014/05/01

王立岩塩事業の確立したポーランド王国はその輸出によって莫大な利益を上げ続けていく。当時同じ重さの岩塩と金は同じ価値で取引されたとされる。樽や突棒の見本や樽を牽引する少年や馬の展示も示され、カリフラワー状の塩の析出ならば樽に充填、成形して製品化するのも比較的容易であったのではないかと推測される。

岩塩坑の底部にある聖堂  撮影:2014/05/01
岩塩坑の底部にある聖堂 撮影:2014/05/01

長い階段を降りて到達した最深部は地表から約135 mの位置で、その近辺には聖堂や礼拝堂それに宴会場などを収容する大広間となっていた。聖堂の壁面は最後の晩餐などの宗教関係の見事な浮彫で飾られ、一角にはクラクフ近郊出身のローマ教皇ヨハネ•パウロ2世 (1920 – 2005) の等身大の岩塩の彫像も置かれていた。

岩塩の結晶でできたシャンデリア  撮影:2014/05/01
岩塩の結晶でできたシャンデリア 撮影:2014/05/01

不純物がなく格子欠陥もない形で析出すれば塩の結晶は白色を通り越して無色透明となる筈である。まるでガラスでできたような岩塩のシャンデリアが聖堂内に幾つも飾られていて、ヴィエリチカ岩塩坑の圧巻といえる光景であった。約1時間半の見学を終えてクラカウ旧市街に戻った。

ヴァヴェル城とヴァヴェル大聖堂  撮影:2014/05/01
ヴァヴェル城とヴァヴェル大聖堂 撮影:2014/05/01

ホテルの近くにあるヴァヴェルの丘の坂道を登りきると、旧王宮であったヴァヴェル城とそれに付随する大聖堂が眼前に現れた。ポーランド国の出発はハンガリーのそれとよく似て西暦1000年頃である。ボレスワフ1世の1025年、ポーランド公国はローマ教皇より王国として認知され領土が確定した。先王がすでにキリスト教に改宗しており西欧キリスト教世界から認知された存在であった。1038年に、正式に戴冠した王ではなかったが王国の事実上の君主であったカジミェシュ1世が首都を中西部のポズナンから南部のクラカウに移す。遷都を機にヴァヴェルの丘にあった古い砦が王宮に変身し聖堂の建設が進んでいった。

ヴァヴェル大聖堂と付随する多くの聖堂  撮影:2014/05/01
ヴァヴェル大聖堂と付随する多くの聖堂 撮影:2014/05/01

現在のゴシック様式の大聖堂は、11世紀また12世紀に建てられた聖堂が破壊あるいは焼失した後に出来上がったもので、14世紀中葉に完成した。1320年に戴冠したヴワディスワフ1世は100年以上にわたる国内の分裂を収拾した王で、国内はようやく聖堂の再建設にとりかかれる落ち着きを取り戻していたと思われる。

ヴァヴェル大聖堂は代々のポーランド王の戴冠式が挙行されるとともに埋葬場所ともなってきたので数々の礼拝堂が周りを囲み、14世紀完成時の姿が見えないほどの複合体構造になっている。ポーランドと周辺国家との複雑な関係を示すものでもある。例えば、後述するように、金色のドームはジグムンド家のその左はスウェーデンのヴァーサ家の礼拝堂である。1978年に史上初のスラヴ系ローマ教皇となったヨハネ•パウロ2世はヴァヴェル大聖堂で1946年に司祭の叙階を得ている。

聖マリア教会のトランペットコール  撮影:2014/05/01
聖マリア教会のトランペットコール 撮影:2014/05/01

ヴァヴェル大聖堂の三度目の建設が完成する頃に、これに対抗して市民の手によって建て始められたという聖マリア教会が旧市街の中央広場の一角にある。高い塔の窓から「聖マリアのトランペットコール」が時報を知らせる。クラクフを含むポーランド南部は1241年にモンゴリア軍の襲撃を受けるが、緊急事態を告げたラッパ吹きが矢にあたって殺された故事に倣って、「聖マリアのトランペットコール」の演奏は途中で急に途絶する。

ポーランドは1333年に即位したカジミェシュ3世の時代に大発展する。外交、軍事に秀でた人物でポーランドでただ一人「大王」の称号をもつ。ボヘミア、ドイツ騎士団、神聖ローマ帝國などの周辺国と和睦を進める一方で、ウクライナを軍事的に支配するなどして広大なポーランド王国の領土は倍増した。国内的には貴族による権力濫用を押さえ込み、農民やユダヤ人の手厚い保護を行なった。ユダヤ人に対する保護条例 (カリシュの法令) はすでに1264年に成立して金融業や商業の自由が保障されていたが、モンゴリアの侵入で荒廃、無人化した地域へのドイツ人らによる植民を進めてさらなる商業発展を推し進めた。カジミェシュ3世はヴァヴェル城の大改築を行なったことでも知られ、1364年には国内初のクラクフ (ヤギュウォ) 大学を創立している。コペルニクスや教皇ヨハネ•パウロ2世の学んだ大学である。

ポーランドは現在もユダヤ系住民の多い国である。強制収容所の代名詞ともいえるアウシュビィッツはクラクフの南西60 kmの地点にあるが、クラクフには映画「シンドラーのリスト」にでてくる工場があった。

ヴァヴェル城の中庭  撮影:2014/05/01
ヴァヴェル城の中庭 撮影:2014/05/01

ヴァヴェル城はジグムント1世 (1467 – 1548 )の治世下に大改築が行われた。イタリアから多くの建築家、職人を招いてルネサンス様式の優雅な姿となって完成した。息子のジグムント2世と弁別するために「老王」と呼ばれる1世は文化の保護者として名高く、その治世は「ポーランド王国の黄金時代」と言われる。ヴァヴェル城の中庭からみる光景は、イタリア以外の地ではなかなかお目にかかれないイタリア•ルネサンス様式建築の美しさを伝えている。王宮内部は現在博物館となりルネサンス絵画を始めとする第一級の収集品を誇る。

「老王」の長男ジグムント2世の1569年、ポーランド王を統一君主とするポーランド=リトアニア共和国が誕生する。リトアニア大公国は14世紀末までに、ベラルーシ全域、ウクライナ全域、ロシアの一部を領土とするヨーロッパ最大の国家となっていた。ポーランド=リトアニア共和国の誕生で欧州最大にして最強の国家が出現したことになる。第一共和国とも呼ばれるが、王政を維持した多くの民族の集合する連邦体であった。

イエズス会聖堂聖ピエトロ•パウロ  撮影:2014/05/01
イエズス会聖堂聖ピエトロ•パウロ 撮影:2014/05/01

1580年代に創立されたイエズス会聖堂がヴァヴェルの丘を下ったあたりにある。バロック様式の美しい建物は1605年に再建されたもので、前庭にはイエズス会の説教者スカルガ (Piotor Skarga, 1536 - 1612)の像が立っている。イエズス会は宣教だけではなく大学や高等教育機関の運営に積極的に取り組み、古典文学、哲学などの研鑽を推し進めた組織であるが、ポーランドでのプロテスタントの衰退にはイエズス会の勢力的な活動があったとされる。

1569年のポーランド=リトアニア共和国の成立から間もない1592年に、ポーランド=リトアニア=スウェーデンの同君連合が成就し、スウェーデンのヴァーサ王家の第4代目シギスムンド王 (1566 – 1632) が連合の王となり、ジグムンド3世として戴冠する。ジグムンド3世の母親は「老王」ジグムンドの娘でスウェーデン王妃であった。若いときからポーランドに住んで教育をうけ、とりわけイエズス会による教育によって熱狂的なカトリックの闘士となった。宮廷内に説教者職を新設して上述のスカルガを任命する。ポーランドでのヴァーサ家の統治は三代で終わるが、これがヴァヴェル大聖堂にあるスウェーデン•ヴァーサ家の礼拝堂の由来である。ジグムンド3世は戴冠後の1596年、スカンディナヴィア諸国やバルト海沿岸地域といったヨーロッパ北方域のカトリック化を念頭に首都をワルシャワに移す。1038年の遷都から558年、政治の舞台はバルト海に注ぐヴィスワ川の中流域に移った。

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