東ヨーロッパ紀行

題目の選定



(9)ドレスデンの選帝侯

エルベ川河畔でひときわ高く聳える聖母教会  撮影:2014/05/06
エルベ川河畔でひときわ高く聳える聖母教会 撮影:2014/05/06

旅行の第9日目は、ベルリンからチェッコの首都プラハへの移動日であった。ベルリンからザクセン州の州都ドレスデンまでは途中の休憩をふくめて約3時間で到着した。エルベ川に架かる橋を渡って市街に入るとき、ひときわ高く聳える聖母教会が目に入った。ドレスデンは第二次大戦中に徹底した爆撃にあい市内中心部は灰塵に帰した。聖母教会の再建は世界中からの拠出金の支援を受け2005年に終了した。

ツヴィンガー宮殿の中庭  撮影:2014/05/06
ツヴィンガー宮殿の中庭 撮影:2014/05/06

まずツヴィンガー宮殿の中庭に入って宮殿の概略を聞いた。その後、市内中心部に向かったが、各自自由に昼食も済ませなくてはならない2時間半の短い滞在であった。 2009年にドレスデンを訪れる機会があったが、それはプラハからのバスによる日帰り旅行で、ツヴィンガー宮殿内にある古典絵画館(アルテ·マイスター·ギャラリー)だけを訪れるものであったので、市内中心部に足をのばす時間はなかった。

ツヴィンガー宮殿は1719年に落成している。古典絵画館は写真の右手にある黒ずんだ建物で、宮殿の落成から100年以上も後の1855年に新王立美術館として追加された。この建設以前には宮殿の中庭はエルベ川に向かって開いていたわけで、宮廷が長年収集してきた絵画を収蔵、展示するための新しい建物の追加であった。このためその外観は、多数の彫刻で飾られたドイツバロック建築の傑作とされる宮殿とは全く異なっている。あちらこちらに陶磁器や科学機器などを展示する館が配されている。正面に見える建物はラムパート館(Rampart Pavilion)で、ギリシャ神話に登場する怪力の英雄ヘーラクレスの像が館の頂上に立っている。

古典絵画館ではティツィアーノ、フェルメール、レンブラントなど多くの名作をみることができるが、とりわけ有名なのは、ラファエロが描いた聖母マリアである。イタリア北部の町ピアチェンツァの聖シスト修道院がラファエロに製作を依頼したことから「聖シストの聖母」という名で知られた。1513-1514年の作品で、ラファエロが描いたマリア像としては最後のものとされ、「システィーナの聖母」とも呼ばれる(参照中央ヨーロッパ紀行)。

エルベ川河畔からみた古典絵画館(全体を見るには右にスクロール)  撮影:2009/08/28
エルベ川河畔からみた古典絵画館(全体を見るには右にスクロール) 撮影:2009/08/28

古典絵画館への入口は建物中央のアーケードにあるが、そこを宮殿側から通り抜けるとエルベ川が目の前に広がる。そこは歌劇場広場と呼ばれて絵画館の全容が見える場所であるが、三枚の写真をつないだパノラマ仕様でようやく収まる大きさである。向かって右半分が絵画館で、左半分には甲冑や武具が展示されている。絵画館の右手にはドレスデン歌劇場があり広場の名前の由来になっている。歌劇場は新王立美術館よりもすこし早い1838-1841年に宮廷歌劇場として建設されたが、どちらも設計者はゴットフリート·ゼンパー(Gottfried Semper)である。歌劇場は地元ではゼンパー·オーパー(Semper Oper)の愛称で呼ばれ、ヴァーグナーやリヒャルト·シュトラウスのオペラの初演が行なわれた。

歌劇場広場からみたドレスデン歌劇場  撮影:2014/05/06
歌劇場広場からみたドレスデン歌劇場 撮影:2014/05/06

2014年のドレスデンの街並みは、建物が洗浄されたためか概して明るい趣きがあった。歌劇場も同様で2009年にはもっと黒ずんでいて、上部は改装工事のための足場が組まれていた。今回は四頭の豹に引かれた車に乗った立像が見え、町の小冊子によると、ギリシャ神話に登場するディオニュソスと、彼がナクソス島で出会ったアリアドネとなっていた。ローマ神話でバッカスと呼ばれるディオニュソスは、通常は豊穣、葡萄酒、酩酊などに関連する神であるが、古代アテネでおこなわれたディオニュソスの祭りが、悲劇や喜劇を上演したことに因む装飾と思われる。

マイセン磁器で描かれた「君主たちの行列」  撮影:2014/05/06
マイセン磁器で描かれた「君主たちの行列」 撮影:2014/05/06

ツヴィンガー宮殿から市内中心部に向かう途中に102mに及ぶ壁画「君主たちの行列」がある。歴代君主の行列を示すこの壁画は、もともとは1870-1876年にWilhelm Walterという画家が、スグラフィット(Sgraffito)という技法を用いて製作した。色彩の異なる二層の漆喰の表面を掻き落として線画にするものである。保存のために、1945に、マイセン磁器のタイル25,000個で置き換えられた。第二次大戦中の爆撃で壁画はほぼ完全な形で生き残った。マイセンは西洋白磁の頂点といわれる陶磁器を産する工業都市で、ドレスデンからは僅か25kmの地点にある。

ザクセン選帝侯フリードリヒ2世と2人の息子  撮影:2014/05/06
ザクセン選帝侯フリードリヒ2世と2人の息子 撮影:2014/05/06

「君主たちの行列」の中にザクセン選帝侯フリードリヒ2世の名前が見える。傍らには息子エルンスト(左)とアルブレヒト(右)がいる。この兄弟は、1485年に領土を分割し、弟のアルブレヒトがドレスデンを中心とする地域を支配することになり、ヨーロッパの名門ヴェッティン家の分枝アルベルティン家の始祖となり、アルブレヒト勇敢公とよばれる。アルベルティン家は1918年まで選帝侯、王を輩出した。

アウグスト2世とアウグスト3世  撮影:2014/05/06
アウグスト2世とアウグスト3世 撮影:2014/05/06

ドレスデンが最も発達したのは選帝侯フリードリヒ·アウグスト1世の時代 とされる。ツヴィンガー宮殿や聖母教会の建設を開始したからであろう。アウグスト1世がザクセンの統治を開始したのは1694年であるが、1697年からはポーランド=リトアニア共和国の王アウグスト2世となった。壁画では2世(1694-1733)となっている。怪力の持ち主であったことから「強王」とか「ザクセンのヘラクレス」よばれ、政治的手腕よりも芸術作品の収集家として名高い。自分でも怪力ぶりを自慢したらしく、ツヴィンガー宮殿のラムパート館にヘラクレスの像があることは前述した。

アウグスト2世の背後にいるアウグスト3世(在位:1733-1763)も、父王と同じように美術品の収集に熱心であった。イタリアの聖シスト修道院から「システィーナの聖母」を購入するに際して、長期に亘る交渉を行ない膨大な金額を払った逸話が伝えられている。

選帝侯の役割は1806年にナポレオンによって神聖ローマ帝國が解体されて消失する。ザクセン公国は王国に昇格し、選帝侯アウグスト3世はザクセン王アウグスト1世 (在位:1806 – 1827) となる。ワルシャワ公も兼ねたが、1815年のウイーン会議の結果ワルシャワ公国は消滅する。この時、プロイセン王国がザクセン王国の併合を主張したが、北半分を割譲して生き残る。ザクセン王アウグスト1世は、ナポレオン戦争で荒廃した国の回復に努め、商工業や学芸の発展に努めた。

アウグスト2世の愛妾宅であったコーゼル邸  撮影:2014/05/06
アウグスト2世の愛妾宅であったコーゼル邸 撮影:2014/05/06

アウグスト2世はポーランド王になるに際してカトリック教に改宗したが、敬虔なプロテスタントであった正妻クリスティーネはこれを拒み、ポーランドに行くこともなく、エルベ川沿いのプレッツシュ城で孤独な生涯を送った。アウグスト王の子供は300人を超えたという同時代人の証言もあり「強健王」とも呼ばれる。私生児のうち認知されたのはごく一部で、正妻クリスティーネとのあいだにできたただ一人の嫡子がアウグスト3世となる。

市内中心部の一角にある豪華な黄色(バロック·イエロー)の館は、昼食のできるレストランとしてガイドさんが教えてくれた場所の一つであった。コーゼル邸(Cosel Palace)という名のこの館の主は、アウグスト2世の愛人のひとりで1706年にコーゼル伯爵夫人という地位を獲得した女性で、アウグスト2世とのあいだに一男二女をもうけた。政治的な発言力もあり、第一夫人に相当する地位を得た人物である。しかし前任の第一夫人と同様に最後は宮廷から追放されている(1713)。残り時間が僅かなのに注文した料理がなかなか出来ず、いらいらしたコーゼル邸であった。

宮廷教会として建設されたカソリック聖堂   撮影:2014/05/06
宮廷教会として建設されたカソリック聖堂 撮影:2014/05/06

アウグスト3世は先王の嫡子といえども、当時のポーランドは選挙王政を採用していたので国王自由選挙を経なければ王になることはできず、候補者をめぐる内紛が近隣諸国の介入を生みポーランド継承戦争に発展する。ロシア女帝アンナ、神聖ローマ皇帝カール6世の支持を得て、2年に及ぶ戦争の後にアウグスト3世は王位を得る。その結果、ロシアの影響力が増し、ポーランド=リトアニア共和国は次第にロシアの従属国また近隣諸国の緩衝国となって衰退していく。

アウグスト3世がツヴィンガー宮殿の近くに建造した宮廷教会がある。先王がカソリック教徒として1697年にポーランド王に就任した際、強力なプロテスタントの地であるドレスデン市民に対しては、カソリック教会は建設しないとか建設しても教会の鐘は鳴らさないなどの和解案を提出していた。聖母教会の建設もすでに父王の時代1726年に始まっていたので、アウグスト3世は宮廷教会を建設するにあたって、その設計などを秘密にして建設を遂行した。通常西から東に向かう軸をもつ教会の基本形も踏襲されていない。教会の鐘がなったのは、ナポレオンによって神聖ローマ帝國が解体されてザクセン王国が生まれた1806年であったという。父王アウグスト2世はポーランドの古都クラクフのヴァヴェル大聖堂に埋葬されたが心臓はこの宮廷教会に保存されている。可愛らしい女性が教会の側を通ると心臓が鼓動するというユーモラスな伝説も残る。宮廷教会は1980年に、ローマ教皇より正式にドレスデン·マイセン司教区のカソリック聖堂と認定されている。

テレージンのナチス強制収容所での式典  撮影:2014/05/06
テレージンのナチス強制収容所での式典 撮影:2014/05/06

ドレスデンからチェコに向かう途中、テレージンというチェコ北部の小さな町で休憩した。ハプスブルクオーストリアが18世紀後半に建設した要塞があり、当時の女帝マリア·テレジアの名からこの町名がついた。

第一次大戦中に要塞は捕虜収容所として使われ、この戦争の開戦のきっかけとなったサラエボでのオーストリア=ハンガリー帝國の皇太子暗殺事件を引き起こしたボスニア系セルビア人ガヴリロ·プリンツィプは、この収容所で死亡している。ナチス·ドイツ領となった第二次大戦中には強制収容所となった。休憩のためにバスが町に入った時に、なにか大きな式典があるらしく急に警護が厳しくなった。ガイドさんも思わぬ事態に困惑していたが、なんとか公共駐車場に入れてもらえて休憩ができた。ダヴィドの星のあるユダヤ人墓地であったが、いろいろな国の国旗をもつ兵隊も聖列しており重要な式典のようであった。

ドレスデンはチェコとの国境に近い町で、首都プラハまでは休憩をふくめて約2時間半の道程であった。

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