中央ヨーロッパ紀行

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(2)中世の宮廷都市ドレスデンへ

川の名前ヴルタヴァ(Vltava)を船名にした遊覧船  撮影:2009/08/26
川の名前ヴルタヴァ(Vltava)を船名にした遊覧船 撮影:2009/08/26

チェコの首都プラハでは、まず観光船と観光バスに乗って市街の様子を一日かけて概観したが、そのあとは努めて足にまかせて歩きまわった。また、一日をさいて隣国ドイツのドレスデンへの日帰りバス旅行を加えた。プラハはかってのボヘミアの中心地である。古くはポーランドの南部とチェコの北部をあわせた広大な地域がボヘミアであったがいまは歴史的地名となった。スラヴ人が長く住んできた土地である。

プラハの市中を流れる川はるヴルタヴァ(Vltava)である。丘の上にあるプラハ城はプラハ第一の名所で、城内にある聖ヴィート大聖堂の尖塔が高く聳え立ち、遊覧船からだけではなく川沿いのいたるところから遠望できる。遊覧船のうえで、スメタナの交響詩「わが祖国」にでてくる「モルダウ」がヴルタヴァのドイツ名であると聞いた。チェコ語は我々には遠い存在である。ヴルタヴァ川はプラハを過ぎるとまもなくエルベ川に合流するが、本流はボヘミアの草原を抜けてドイツ南部の都市ドレスデンへ入る。バスで行けば片道約2時間という近距離であるため、2002年に発生したエルベ水域の大増水ではプラハもドレスデンも浸水の被害に見舞われた。プラハ市内は広範囲にわたって床上浸水の状態となり地下鉄は数ヶ月動かなかったそうである。

エルベ河畔のドレスデン  撮影:2009/08/28
エルベ河畔のドレスデン 撮影:2009/08/28

エルベ河畔のドレスデンは、プラハと同じように教会や聖堂の尖塔が目立つものの、これらのほとんどが最近になって修復、復元されたものばかりである。第二次世界大戦が終わろうとする1945年2月、連合軍の空爆で市内中心部はほぼ壊滅状態となった。写真の左端に見える聖母教会(Frauenkirche)の復元工事は、東西ドイツ統一(1990年)後に始まった世界的規模の募金活動を通じて2005年に完成した。対岸にある有名なツヴィンガー(Zwinger)宮殿も同じように空爆の被害を受けた。

ツヴィンガー	宮殿の正面入り口  撮影:2009/08/28
ツヴィンガー 宮殿の正面入り口 撮影:2009/08/28

ツヴィンガー宮殿はバロック洋式の堂々たる建物で、その一部がツヴィンガー美術館 (Old Masters Picture Gallery) となっている。ラファエロをはじめとするイタリア絵画の殿堂であるが、 オランダ、スペイン、フランス、ドイツの名画もひしめきあっている。プラハからの日帰りバス旅行はこの美術館だけを案内するものであった。それだけ大規模の蒐集ということだが、そのほとんどが、アウグスト二世 (1670-1733)と三世 (1696-1763)の在位中の約50年間に蒐集された。

この二人の王はポーランド国王であったが、ザクセン地方を代表してドイツ王を選出する特権をもつ選帝侯でもあった。つまり、ドレスデンはザクセン選帝侯の宮廷都市であり、ツヴィンガー宮殿はアウグスト二世の時代に建造された。ワルシャワとドレスデンの居城に保有されていた蒐集品を一堂に収めるために、両王の死後から百年あまりを経た19世紀中葉に、ツヴィンガー宮殿の一画に美術館を建築した。宮殿正面の入り口のはるか向うにみえるアーチが、美術館の入り口で、それを突き抜けると裏手の広場に出てエルベ川が見える。広場には、これまた壮麗なドレスデンオペラの建物があるが、美術館もオペラ座も同じ設計者(Gottfried Semper)の手になる。

ラファエロ「聖シストの聖母」1512-1513作  撮影:2009/08/28
ラファエロ「聖シストの聖母」1512-1513作 撮影:2009/08/28

ラファエロの「聖シストの聖母」はツヴィンガー美術館を代表する名画で、特別の逸話をもって語られる。アウグスト三世は、北イタリアの教会にあったこの絵を獲得するのに二年間も交渉を続け、1754年にドレスデンに到着した。絵の下端に二人の天使がいるが(スクロールバーを動かして絵全体を見てください)、背景の青い空の中にも無数の天使の頭が描いてある。実際に絵を観た時には気づかなかったが、後になって解説書によって知った。最近、写真撮影を許可する美術館がふえてきたのは嬉しい。

ツヴィンガー美術館の裏手にある広場  撮影:2009/08/28
ツヴィンガー美術館の裏手にある広場 撮影:2009/08/28

美術館の収集品は、1945年2月の大空襲の前にすでに安全な場所に移されていたという。度重なる空襲を受けてのことであった。ドレスデンがソ連の占領地域となった折に多くの絵画がソ連に持ち去られた。美術館発行の解説書には、「1945年からの10年間、ドレスデン市民が絵画の行方について詮索することはできなかった」とある。戦後、ドレスデンはドイツ民主主義共和国(東ドイツ)領として東欧の仲間入りをするが、1955年になって、モスクワにある東ドイツ政府の代表部に、絵画返却の連絡がもたらされる。そこで、空爆によって破壊されていたツヴィンガー美術館を急遽修復することとなった。修復は1955年5月に開始されて一年後の開館となる。修復が完了するのは1960年10月であるが、全ての絵画が戻ったわけではなく、1963年と2005年に消息不明の絵画の目録が発表されているとのことである。

プラハで宿泊したホテルの前の電車通り  撮影:2009/08/29
プラハで宿泊したホテルの前の電車通り 撮影:2009/08/29

プラハで宿泊したホテルは丸いドームの付いた由緒ある建物であった。プラハの最初の宿泊施設として14世紀末に創建されたとあった。現在のホテルの前身はボヘミア王国労働者傷害保険協会であり、チェコの小説家フランツ.カフカはこの保険会社に1908年から1922年まで勤務し、そのかたわらドイツ語で小説を書いた。

カフカの父親はチェコ語を母語としたが、公用語であるるドイツ語を学ばせるべく、ドイツ語で教育を行う学校にカフカを入学させたという。良くも悪くも、ドイツの政治的、文化的影響が大きかったことを伺わせる逸話である。中世の宮廷都市ドレスデンでツヴィンガー宮殿を見てきた後ではかなり実感の伴う話であった。実際に、ボヘミア公国は10世紀以降は神聖ローマ帝国に属して政治的にドイツと結びつき、ドイツ語は支配階級や文化人の言葉となった。神聖ローマ帝国は1806年に解散となるが、以後ハプスブルグ家によるオーストリア帝国の支配が第一次世界大戦の終了時(1918)まで続く。カフカの勤務した保険会社は、彼の勤務年限から計算して、オーストリア帝国の壊滅よって生まれたチェコスロヴァキア共和国でも業務を続けたことになる。

高い天井を有するホテルには旧式の大理石の螺旋階段が残り、通常の長さの二倍もありそうな重厚なカーテンが客室にもレストランにも下がり、由緒ある建物の風格を残していた。とはいえ、客室は現代風に改装されて快適な滞在ができた。カフカに関連する品々が廊下のあちこちに展示され、カフカ博物館にまけない念の入れようであった。難をいえば、客室からのインターネット接続料が高く、しばしば近くのインターネットカフェに足を運ばねばならなかった。これは飛行機の乗り継ぎで一泊したフランクフルトでも、ヨーロッパで最後の滞在地となったアムステルダムでも同様であったので、ヨーロッパ全般の現況なのかもしれない。

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