中央ヨーロッパ紀行

題目の選定



中央ヨーロッパ紀行(6) ハプスブルグの本拠地ウィーン

ハプスブルクの王宮であったホーフブルグ宮殿  撮影:2009/09/02
ハプスブルクの王宮であったホーフブルグ宮殿 撮影:2009/09/02

ホーフブルグ(Hofburg)はヨーロッパに君臨したハプスブルグ王家の宮殿である。正面入り口の裏手にあって、現在スイス宮殿とよばれる一画が造られたのが13 世紀といわれ、以来数多くの建物が増築されて今日の堂々たる複合建築に成長した。13世紀といえば、ハプスブルグ家のルドルフ一世(1218-1291)がドイツ王に選出されて(1273)、ヨーロッパ史の舞台に踊り出た時代である。当時のドイツは現在のドイツよりも広くオーストリアやスイスの一部を含む領域で、ハプスブルグ家はスイスに所領を有していた。ドイツ王すなわち神聖ローマ帝国皇帝という政治状況が醸成されていた時期であったが、ルドルフ一世はローマ教皇から正式に戴冠を受けたわけではない。

皇帝選挙でルドルフ一世に破れたボヘミア王オタカル二世は、1251年以来オーストリア公の地位を有していたが、ルドルフ一世軍とハンガリー軍の挟撃にあってオーストリアの領土をほとんど失ったのであった。これを機にルドルフ一世は、拠点をスイスからオーストリアに移し、一伯爵家がヨーロッパ随一の名門王家となる約700年の歴史が始まった。

ウィーンでの見たり聞いたりは、長い長いハプスブルグ帝国の歴史に終始したが、前述したように、ここは古代ローマ帝国の北辺をなす重要な駐屯地であり、ホーフブルグ宮殿の前庭から古代ローマ時代の遺跡が発見されている。「自省録」の著書で知られ、賢帝中の賢帝とよばれる第16 代皇帝マルクス∙アウレリウスは、遠征先のここウィーンで西暦180年に病没した。映画「グラディエーター」(2000) では、皇帝は後継者となる息子のコモドゥスによって窒息死させられる設定になっている。架空の話であってよい映画と史書にあらわれる記載との関係について、塩野七生はその著「ローマ人の物語」のなかで、「映画と歴史」という一項をもうけて、ゲルマニア戦役中におこったこの皇帝継承問題の背景を詳細に解き明かしている。

第二次大戦中ナチス∙ドイツに併合されたオーストリアは、戦後の10年間、米英仏ソの四カ国の共同占領下におかれた。この時代背景は映画「第三の男」の重要な部分である。1955年の独立とともに永世中立国として出発し、ホーフブルグ宮殿の内部には国民の直接選挙で選ばれた国家元首であるオーストリア連邦大統領の公邸がある。

南塔の尖塔を背景にしたシュテファン大聖堂  撮影:2009/09/02
南塔の尖塔を背景にしたシュテファン大聖堂 撮影:2009/09/02

シュテファン大聖堂はウィーン第一の観光名所である。オーストリアを代表するゴシック建築で、世界で三番目に高いという(137 m)南塔がひときわ見物客の目を引く。聖堂の建設はルドルフ四世(1339-1365) の代に始まったが、この高い南塔が完成するにはおよそ百年を要した。ルドルフ四世はウィーン大学を創設したことでも知られ、建設公ルドルフと呼ばれる。

ルドルフ四世の在世中に神聖ローマ皇帝カール四世(1316-78)は、ニュルンベルグで開催された帝国議会で、かの有名な金印勅書を発令する(1356)。ボヘミア王であったカール四世の業績はプラハの聖ヴィート大聖堂やカール橋ですでに見てきた。ルドルフ四世の妃カタリーナはカール四世の娘である。

この金印勅書は、ローマ教皇によって戴冠されて神聖ローマ皇帝になる人を選定する七人の選帝侯を規定した。七人とは、マインツ、トーリア、ケルンの大司教、プファルツ伯 (ライン宮中伯) 、ザクセン公、ブランデンブルグ辺境伯、ボヘミア王である。ルドルフ一世からルドルフ四世までの百年に満たぬ間に、すでにアルブレヒト一世、フリードリヒ三世とドイツ王を輩出していたハプスブルグ家であったが、ルドルフ四世にはこの役割はまわってこなかったばかりか選帝侯にもはいらなかった。

聖職者や貴族の免税特権の廃止や消費税の導入など急進的な政策で知られる建設公ルドルフは、破天荒の対抗策に出た。自分は、「オーストリア公、ケルンテン公、クライン公、帝国狩猟長官、シュヴァーベン公、アルザス公、そしてプファルツ大公である」と名乗り出たのである。最後の四つの地位は詐称で、特に大公という称号はそれまで存在しなかった。司教の上に大司教がいるわけだから、俗世の公爵の上に大公爵がいても不思議はないという理屈の裏には、ハプスブルグ家は七選帝侯に劣らぬ特権を持つという主張があった。皇帝カール四世の要求にたいして提出された証拠書類は明らかな偽書であったが、そこは力関係が支配する政治の世界、最後にはうやむやとなり、後に、ハプスブルグ家出身の神聖ローマ皇帝フリードリヒ三世(1415-93)によって、「大公」はハプスブルグ家にのみに許される正式のの称号になる。

ウィーン国立歌劇場  撮影:2009/09/02
ウィーン国立歌劇場 撮影:2009/09/02

その歴史を反映してウィーンには多くの美術館、博物館がある。また数多くの音楽家が活躍した世界有数の音楽の都でもある。ハイドンは少年期にはシュテファン大聖堂の聖歌隊の一員であった。モーツァルトはシュテファン大聖堂で結婚式を挙げたし葬儀もまたここで行なわれた。ハイドンに才能を認められたベートーヴェンは、22歳の時にウィーンに移り住んだ。神聖ローマ皇帝レオポルト二世の末子ルドルフ大公(1788-1831)に献呈されたピアノ三重奏曲「大公」は、パトロンとしてのハプスブルグ家とベートーヴェンとの関係を物語っている。

ネオクラシック様式のウィーン国立歌劇場は1869 年に完成し、モーツアルトの歌劇「ドン∙ジョバンニ」でこけら落としが行なわれた。第二次大戦末期に破壊されたが、1955年に修復作業が完成した。ウィーン交響楽団と折り合いが悪くなって指揮者を辞任したグスタフ∙マーラーはその後もここウィーン国立歌劇場での仕事を続けた。そのほか、リヒャルト∙ストラウス、ブラームス、ヨハン∙シュトラウスなどウィーンで活躍した音楽家の数は枚挙にいとまがない。

ウィーン国立歌劇場の正面屋上にあるマリア∙テレジアの銅像   撮影:2009/09/02
ウィーン国立歌劇場の正面屋上にあるマリア∙テレジアの銅像 撮影:2009/09/02

ウィーン国立歌劇場の正面屋上にマリア∙テレジアの銅像が見える。ハプスブルグ家は男系相続であるが、神聖ローマ皇帝となったカール六世(1685-1740)には男子がなく、長女のマリア∙テレジアにハプスブルグ家世襲領の相続を認めていた。しかし、カール六世が死去すると、この相続に異をとなえる周辺諸国が領土の分割を求め、オーストリア継承戦争 (1740-48) が勃発する。二転、三転する戦況を克服し、1745 年には夫フランツ∙シュテファンを皇帝の地位に就けることに成功する。数え切れないほどのハプスブルグ家当主とその縁戚関係はヨーロッパ中にひろがって、地元ガイドの話は、最後は混乱で終わる。しかし、各種の改革もおこなってオーストリアを強国にすることに邁進したマリア∙テレジアは、歴代大公のなかの紅一点の実質的な君主として特筆すべき存在である。

フランツとのあいだに男子5 人、女子11 人の子供をもうけ、末娘のマリー∙アントワネットはフランス王ルイ十六世の妃となった。馬にまたがるマリア∙テレジアの雄姿は、オーストリア国民の心をとらえた輝かしい過去を讃えているように見える。夫のフランツ∙シュテファンは現在のフランスのロレーヌ(ドイツ語ではロートリンゲン) 地方の出身であるため、マリア∙テレジアの子供たちの代からは、ハプスブルグ=ロートリンゲン家という複合姓が正式な家名となった。

裏庭から望むシェーンブルン宮殿  撮影:2009/09/02
裏庭から望むシェーンブルン宮殿 撮影:2009/09/02

シェーンブルン宮殿はハプスブルグ王家の離宮として使われた建物で、マリア∙テレジアの祖父レオポルド一世(1640-1705)が狩猟用の別荘を作ったのが始まりであるが、彼の治世中にウィーンに進入したオスマントルコによって一度破壊された。その後次第に増築されていき、マリア∙テレジアの時代に完成をみる。財政上の理由で、金の代わりに黄色の塗料を使って外壁をしあげたので、黄金色に近い黄色はテレジア∙イエローとかハプスブルグ∙イエローと呼ばれているようである。フランスのヴェルサイユ宮殿に対抗すべく、フランス式の庭園を備え、室内装飾を重視したロココ様式の大建築物で、1441の部屋を有しているが一部は賃貸住宅として市が貸し出している。

フランス革命後のヨーロッパの大半を征服したナポレオンが 1805年と1809年にシェーンブルン宮殿に司令部においたが、ナポレオン戦争後のヨーロッパの秩序回復をめざして開催されたウィーン会議(1814-15)の会場としても使われた。

ハプスブルグ帝国の実質上の最後の皇帝、フランツ∙ヨーゼフ一世(1868-1916)については、ハンガリー王国成立に関してブダペストの項でふれたが、彼はシェーンブルン宮殿で生まれ皇帝在位68年の後ここで死亡した。彼の息子カール一世はシェーンブルン宮殿で退位を表明し、ハプスブルグ帝国は終焉した(1918)。

Move to the Top