中央ヨーロッパ紀行

題目の選定



(3)野外建築博物館プラハ

旧市街地区にある聖十字架礼拝堂  撮影:2009/08/29
旧市街地区にある聖十字架礼拝堂 撮影:2009/08/29

戦争によって大破壊を蒙ったドレスデンとは対照的に、プラハではおよそ千年に亘る歴史的建造物が目白押しに立ち並ぶ。現存する最古の様式ははロマネスクで、旧市街にある丸屋根円筒形の聖十字架礼拝堂がその様式の素朴な面影を今に伝えている。12世紀前半に完成されたとされるが、当時、ヴルタヴァ川に橋はなく浅瀬を渡ってプラハ城に登っていった。その街道筋にあったとされる教会である。

プラハ城内の聖ヴィート大聖堂  撮影:2009/08/29
プラハ城内の聖ヴィート大聖堂 撮影:2009/08/29

プラハ城の中核をなす聖ヴィート大聖堂を左手に見ながら王宮庭園の坂道を登って行くと、聖十字架礼拝堂に似た円筒形の火薬塔が見える。現在の大聖堂はゴシック建築の代表であるが、それより古いロマネスク建築群のうえに追加されていったもので、聖堂の地下には10世紀の円筒形の建物の跡や、11世紀の長堂式の聖堂の跡が残っているという。 大聖堂を横からみると、左右の半分で窓の形や屋根瓦に違いがあるのが分かる。左半分はカール四世の治下1344年に建設が開始された部分で、右半分は初期の計画通りに19世紀から20世紀にかけて完成した部分である。

カール四世はプラハに生まれたボヘミア王で、チェコ風に言えばボヘミア王カレル一世である。幼年期をパリで過ごし、フランス王に因んでシャルルという名も使った。カール四世は1346年からの33年間、神聖ローマ皇帝としても在位し、ヨーロッパ最古のプラハ大学を創設するなど、プラハを欧州一の文化、学問の都市として発展させた。その繁栄ぶりはロンドンやパリを凌ぐほどであったという。ヴルタヴァ川に架かる初めての橋の建設も同時期に始まった(1357年)。今日、全長520 mのカール橋の上は、終日、観光客の行列が絶えない。 世に有名なチャールスブリッジである。

ヴィート大聖堂の内部  撮影:2009/08/26
ヴィート大聖堂の内部 撮影:2009/08/26

ヴィート大聖堂の中にはいると、梁で支えられたたゴシック様式特有の弓形の天井がまず目に入ってくる。アーチの中央部までの高さは33 mある。聖堂はゴシック建築の特徴を示して細長く奥行124 mある。中央の身廊の両横に側廊があり、さらにそのまわりに数多くの礼拝堂が配置されている。国の守護聖人である聖ウェンセスラス礼拝堂もその一つである。カール四世をはじめとする王族の納骨堂は聖堂の地下にあるという。

フェルディナンド一世家の霊廟  撮影:2009/08/26
フェルディナンド一世家の霊廟 撮影:2009/08/26

聖堂内にて、ボヘミア王国とハプスブルグ帝国との絆をしめす霊廟をみることができる。ハプスブルグ家の分家であるスペインハプスブルグ家で生まれたフェルディナンド一世は、祖父マクシミリアン一世 (神聖ローマ皇帝在位1493-1519) の遺領であるオーストリアを継承するが、その後, ボヘミアの王女アンナと結婚する。アンナの弟の戦死によってボヘミア、ハンガリーの両王位が空位となり、フェルディナンド一世はこれをも継承することになる。

格子に囲まれた霊廟の上部には、アンナおよび長男のマクシミリアン二世と一緒に横たわったフェルディナンド一世の大理石像がある。それまでおもにオーストリアを軸足としていたハプスブルグ家がその勢力範囲を拡大していった軌跡がここにある。ハプスブルグ家の政略結婚政策は時に非難めいて語られるが、「二度とスペインに戻れなかったフェルディナンド一世であるが沢山の子供に恵まれて幸福であった」とは観光案内人の言であった。フェルディナンド一世もマクシミリアン二世も神聖ローマ皇帝として在位したが(1556-64, 1564-76)、ハプスブルグ家はこのあとも皇帝位を独占してゆくことになる。神聖ローマ帝国の形骸化とそれに代わるハプスブルグによる多民族国家オーストリア=ハンガリー帝国への変貌が垣間見える。

ルネッサンス様式の夏の王宮、ベルヴェデェレ(Belvedere)  撮影:2009/08/29
ルネッサンス様式の夏の王宮、ベルヴェデェレ(Belvedere) 撮影:2009/08/29

ハプスブルグ家の統治下、プラハ城は、中世の典型的な城郭の姿を脱して、王家の娯楽設備や庭園をも加えるようになる。庭園の一画にある夏の王宮は、フェルディナンド一世が后アンナのために建てたもので1564年に完成した。アルプス以北で最も美しいルネッサンス建築といわれている。庭園にある「歌う噴水」も有名である。訪れたときには王宮は補修作業の最中で入館できなかったが、通常は美術館として開館している。

マクシミリアン二世の後継者ルドルフ二世(神聖ローマ皇帝在位1576-1612)は政治を留守にして美術品の蒐集や文化活動に没頭した。その統治時代にルネッサンス建築の最盛期が訪れる。イタリアからやってきた建築家や労働者が、静的で平行性を特色とするルネサンス様式を、宗教関係の建物だけでなく世俗の一般建築にも広げていった。

カール橋の彫像と国立劇場  撮影:2009/08/29
カール橋の彫像と国立劇場 撮影:2009/08/29

ルネッサンス建築に続いて現れたバロック建築は、彫刻や家具などと建築を一体化する総合芸術であるから、彫像や調度品などを担当する芸術家も抱えられる資本がないと建てられない。17世紀初頭にローマで始まった様式だが、絶対王政を敷くフランスのルイ14世(1638-1715)のもとで絶頂期を迎える。室内装飾に重点をおくロココ様式もバロック様式の部類に入る。プラハではチェコバロックという独特の様式が発達した。チェコ式アーチ天井に壮大な天井画を描くものである。

カール橋には30体の聖人の彫像が配列されてバロック様式の野外美術館の観を呈する。酸性雨のためか頻繁に行きかう観光客のためか、黒く汚れた彫像は清掃作業の最中であった。前述したようにカール橋そのものは14世紀に起源をもつが、後方に見える金色の屋根をもつ建物はネオルネッサンス様式の国立劇場である。一望のなかに数世紀が混在する、これがプラハの原風景といえそうである。
チェコ語で上演される劇場が存在しなかったプラハに、チェコ人のための劇場建設を目指す運動が生まれ、それがチェコ芸術の殿堂とされるこの国立劇場を生んだ。自由主義、民族主義の気運が次第に高まってくる19世紀後半のことである。

プラハ市民会館  撮影:2009/08/26
プラハ市民会館 撮影:2009/08/26

20世紀になってもプラハは壮麗な建築を生み出していく。1911年に完成したプラハ市民会館は、鉄やガラスなどの新素材を用い自由な曲線の組み合わせによる装飾性で知られるアールヌーヴォー様式の建物である。大きなモザイク壁画を上に抱く正面のバルコニーから、1918年、チェコスロヴァキア共和国成立の宣言が行なわれた。ハプスブルグのオーストリア=ハンガリー帝国が第一次世界大戦の終了とともに消滅した時であった。市民会館の内部にはレストランなどもあるがその中核はスメタナコンサートホールである。

旧市街広場のティーン教会と旧市庁舎の天文時計  撮影:2009/08/27
旧市街広場のティーン教会と旧市庁舎の天文時計 撮影:2009/08/27

市民会館の近くに、11世紀以来ヨーロッパの交易の中心的役割を果した広場がある。次第に教会や住宅が広場を囲み、市庁舎も加わって旧市街地とよばれる地区に発展した。広場をみおろす双塔の教会はゴシック式のティーン教会で、教会の左にある赤い屋根の建物は、ここに住んだ外交官の名前に因んでキンスキー宮殿とよばれるロココ式建築である。カフカの通った学校でもあった。手前の旧市庁舎の壁には、16世紀に技術的完成をみた天文時計があり、キリストの12使徒が次々に時計の上の小窓から顔を覗かせたあと、鶏が鳴いて鐘がなる。時報が告げられる頃には広場は観光客で膨れ上がる。

この広場や市街のあちこちで大規模のデモが連日続いた時があった。それは、1989年11月、チェコスロヴァキアの共産党体制に崩壊をもたらしたビロード革命 (Velvet Revolution) がおこった時である。流血の事態が避けられ比較的穏健に政権交代がおこなわれたのでビロード革命とよばれる。1968年におこった「プラハの春」とよばれる自由化、民主化運動が、ソ連を含むワルシャワ条約機構の軍事介入で抑圧されて以来、再び民衆の運動が一気に盛り上がったのがこの革命である。11月9日のベルリンの壁の崩壊はよく知られているが、その前にすでにチェコとスロヴァキアには大量の東ドイツからの市民が流入して来ていた。ソ連などの共産圏いわゆる東欧諸国からの反応を懸念しつつも東ドイツ市民を西ドイツに移動させていたという。プラハの春の中心人物の一人であったドヴチェックが12月に連邦会議議長として返り咲き、1993年1月にはチェコとスロヴァキアが連邦を解消しそれぞれ独立国となり、両国とも2004年に欧州連合加盟を果した。東欧の意味は地理的には変わる筈はないけれど政治的には随分変化した。

ルドルフィヌムとドヴォルザークの銅像  撮影:2009/08/27
ルドルフィヌムとドヴォルザークの銅像 撮影:2009/08/27

プラハはモーツァルトとの関係が深い町でもある。オペラ「ドンジョヴァンニ」は、1787年、モーツァルトの指揮でプラハで初演された。1791年には、ハプスブルグ家のレオポルド二世(神聖ローマ皇帝在位1790-92)のボヘミア王戴冠式で、オペラ「皇帝ティートの慈悲」も初演された。ハプスブルグ家によるオーストリア帝国の統治は、その終末期には啓蒙専制主義といわれる寛容な政策に変わっており、自由主義、民族主義の気運が次第に高まり、ボヘミアではチェコ国民楽派の台頭もみられる。スメタナ(1824-1884)はこの学派の祖といわれる。

ヴルタヴァ河畔に立つルドルフィヌムは、1876-1884に建てられたネオルネッサンス様式の芸術会館で、チェコ交響楽団の本拠地である。会館前の広場にはスメタナの影響を受けたといわれるドヴォルザーク(1841-1904)の銅像が立つ。1968年のワルシャワ条約機構の軍事介入時にイギリスに亡命した名指揮者クーべリクは、ビロード革命の翌年1990年に帰国し、チェコ交響楽団を指揮してスメタナの「わが祖国」全曲を演奏した。 以前チェコ交響楽団のチェロ奏者であったと推測される人物が、コーリャという名の男の子を養育する「コーリャ愛のプラハ」という映画は、この頃の時代背景が底流として扱われている点で興味深い物語である。1996年度のアカデミー外国語映画賞を受賞した。クーベリクの指揮の様子も映画のなかに挿入されているし、ソ連人のコーリャの母親は、チェコ国籍を得たあと息子をおいてドイツに逃げていってしまう。

ルドルフィヌム内の主演奏会場はドヴォルザークホールで、ここで行なわれた米国在住のエマソン弦楽四重奏団の演奏を聞き行った。ドヴォルザークの弦楽四重奏曲「スラヴォニク(Slavonic)」の演奏に答えて聴衆の大喝采が沸き起こった。欧州連合の一員となった新生チェコの喜びも溢れているように聞こえた。

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