トルコ紀行

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(6)エフェソスとギリシャ

クシャダス港に停泊中のクルーズ船 RC Mariner of the Seas  撮影:2011/03/31
クシャダス港に停泊中のクルーズ船 RC Mariner of the Seas 撮影:2011/03/31

ギリシャ本土とトルコのアナトリア (小アジア) はエーゲ海によって隔てられているが、多島海という別名のとおり約2500の島を媒体としてのギリシャ人のアナトリアへの植民は容易であった。紀元前九世紀末から八世紀にかけての第一波の活動で、アナトリアの西海岸にギリシャ人の住むイオニア地方が出現した。半世紀後には、イオニア人も加わり、南イタリアやマルセーユなどの南フランス、さらにスペインにも広がる地中海全域の活動となった。

一年前に行なった地中海クルーズでは、トルコにいた時間は一日足らずのあわただしいものであったが、それは古代都市遺跡エフェソスを見学するためで、イオニア地方の中心地イズミルの南約100キロにあるクシャダス港に寄航した。今年のバス旅行では、前日の宿泊地イズミルから約1時間でエフェソスに到着した。

クルーズ船のデッキから見えたクシャダスの市街  撮影:2011/03/31
クルーズ船のデッキから見えたクシャダスの市街 撮影:2011/03/31

クシャダスは7万足らず港町であるが、夏には人口が50万以上にふくれあがるという国際的な保養地である。大型観光船が寄港するが、こうした船は朝早く港について夕方には出航し、夜の間に次の寄港地に向かうことが多い。運航会社が提供する日帰り旅行を選んで日中の観光をするのが普通だが、三千人前後の旅客をのせる大型船の場合、何十台ものバスが港に待ち受けることになる。

マイクロバスの観光案内嬢   撮影:2011/03/31
マイクロバスの観光案内嬢  撮影:2011/03/31

あらかじめマイクロバスを予約しておいて、少人数で迅速にしかも割安の観光するのは得策である。2011年、私たちを港で待っていたマイクロバスの観光案内嬢は、参加者が席に着くや、開口一番、「トルコの女性といえばスカーフで頭を覆い、場合によっては目だけをだして仕事をすると想像していたでしょう。トルコのイスラム教徒は私みたいに一般西洋人とそんなに違わないのよ」と挨拶して、アメリカ留学の経歴も披露した。バスは約30分でエフェソスの町に入った。

イオニア人はペルシャの独裁政治に反乱を試みたグループとしても知られる。紀元前478年にギリシャで敗戦を喫したペルシャのクセルクセスは、その帰路、各地で略奪をくりかえしたが、エフェソスは被害を免れた。紀元前454年からアテネの保護下に入ったエフェソスは、紀元前334年にアレキサンダー大王によって占領される。ペルガモンの項でみたように、アレキサンダー大王の遺将リシマコスによるペルガモン王国の建設とその繁栄の時代(ヘレニズム)を経て、紀元前133年にローマの一部となる。

エフェソス遺跡の案内板  撮影:2012/03/26
エフェソス遺跡の案内板 撮影:2012/03/26

一年のあいだに案内版の数が増え、説明文も丁寧かつ充実していた。その一つに、見学コースが赤線で示され、エフェソスの代表格ともいえるアルテミス像の写真が付けてあった。中央の等高線はピオンの丘でその南にピュルピュル山がある。エフェソスの古代都市遺跡は、この二つの山の間の谷間に広がる。ピュルピュル山には聖母マリアの教会がある。アルテミスが祀られた神殿はピオンの丘の北に広がる平野部にあった。その北にあるアヤソルクの丘には聖ヨハネ教会がある。これらを見ていくのが一般的なエフェソスの観光である。

アルテミス神殿跡の近くには、エフェソス考古学博物館もある。二体のアルテミス像のほかに、古代都市遺跡からの発掘物が豊富に展示されていると聞くが、エフェソスの二回の訪問でも見学の機会を逸した。2011年のマイクロバスによる観光では、地元産業であるカーペット工場を見学したためであり、今年は、次の宿泊地パムッカレへの移動に午後の時間を割いた。

案内板の写真は小さいけれども、アルテミスの特異な姿は明らかである。腹部に多数の卵のようなものをぶらさげ左右に動物を従えている。頭にのせている装束などの特徴から、アナトリア地方の地母神キベレであるとされている。

イスタンブール考古学博物館にあるアルテミスの像  撮影:2012/04/05
イスタンブール考古学博物館にあるアルテミスの像 撮影:2012/04/05

アルテミスはギリシャ神話ではゼウスの双子の子供でアポロと一緒に生まれた。イスタンブル考古学博物館にあったアルテミス像は、エーゲ海で三番目に大きいレスボス島で出土したものであった。弓矢をもち鹿をつれている一般的な姿ではなかったが、ローマ神話での狩の女神ダイアナに相当する。ローマ神話には独自のものがないところからギリシャ神話の神と同一視されるものが多い。

アルテミス神殿の跡  撮影:2011/03/31
アルテミス神殿の跡 撮影:2011/03/31

アルテミスを祀った神殿は今はなく一本の円柱が残っているだけで、基礎部分は湿地のなかに埋もれている。西暦262年のゴート族の侵入により破壊されたとされているが、大英博物館による1869年の発掘によって神殿の跡が確認された。すくなくとも127本の柱があったことが判明した。つづく1904 – 1906年の発掘で得られた彫像などは大英博物館に所有されている。

後方に見える小さな丘は聖ヨハネ教会のあるアヤソルクの丘である (後述)。麓には1375年に建てられた回教寺院イサベイ∙ジャミイがみえる。アルテミス神殿跡に広がる平野は、長期に亘る土砂の堆積でできあがったものである。

アルテミス神殿跡に巣をつくるコウノトリ  撮影:2011/03/31
アルテミス神殿跡に巣をつくるコウノトリ 撮影:2011/03/31

アテネのパルテノン神殿は約30 m x 90 mの建物で、最外側を取り囲む柱の数は46本である。その内側に23本の柱があり総数89本で屋根を支える設計である。これと対比して考えてみると、高さ19メートルの柱が少なくとも127本あったというアルテミス神殿は、パルテノンより相当大規模となる。紀元前550年頃にできたというこの世界初の総大理石造りの建物は、紀元前356年の放火事件のあと323年に修復された。この時、アレキサンダー大王が修復を申し出たが断ったという故事もある。イスタンブルにあるミニチュア公園に、二十五分の一の縮尺のアルテミス神殿の模型があると聞く。

奉納されたアルテミスの像は十数メートルの高さがあったという。ギリシャ神話に登場するアルテミスの名を土着の神キベレに与えて、ギリシャ様式の神殿に祀ったということは、植民活動の過程で生まれた文化の融合を象徴するものとして興味深い。日本にも、土着の宗教である神道、インドから伝わった仏教、中国の道徳的規範である道教を習い合わる「神∙仏∙儒習合」の発想がある。

アルテミス神殿跡に巣をつくるコウノトリ  撮影:2011/03/31
アルテミス神殿跡に巣をつくるコウノトリ 撮影:2011/03/31

ゴート族によって破壊されたアルテミス神殿の石材は、他の建築物の資材として持ち去られ、例えば、コンスタンチノープル(イスタンブル)のアヤソフィア聖堂の建造に使われたとする書もある。トルコの春はコウノトリが巣作りをする季節である。一本だけ残る柱の上で、もうひとつの使い道を教えてくれるコウノトリがいた。

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