トルコ紀行

題目の選定



(5)ペルガモン

アテネのアクロポリス  撮影:2011/03/30
アテネのアクロポリス 撮影:2011/03/30

古代ギリシャでは小高い丘の上に神殿などを建設しそれを中心に都市国家 (ポリス)を発達させた。ポリスを守護しその象徴となった中心の丘がアクロポリスである。アクロポリスといえばアテネにあるアクロポリスを指すほどであるのは、パルテオンをはじめとする四つの古代ギリシャ建築の傑作がその姿をいまに伝えているからである。

ペルシャの進入を撃退してアテネの最盛期を築いたペリクレスの時代 (在位、紀元前495? - 429)に、爆破などによって破壊された神殿は再建された。四つの古代ギリシャ建築の傑作とは、三つのと神殿とアクロポリスへの入り口になる堂々たる構えの門である。古代のギリシャが多数の守り神を戴いた国であったことを如実に象徴している。アテネを守護するのは女神アテナイである。

ギリシャとペルシャの間に位置したマケドニアは、建国以来ギリシャ人であるとの自覚をもつ国であったようだが、ギリシャとペルシャとの戦争ではペルシャ側についた。その後、力を蓄え、アレキサンダー大王の時代になってペルシャを撃退する (紀元前334年)。ダーダネルス海峡を渡ったアレキサンダーの東征は、アナトリア地方に、後世ヘレニズム文化とよばれるギリシャ精神を浸透させる。

ペルガモンのアクロポリス  撮影:2012/03/25
ペルガモンのアクロポリス 撮影:2012/03/25

ペルガモンは、アレキサンダー大王の死後 (紀元前323年) 、遺将の一人が大王の残した財宝を管理する過程で王朝を創建した場所である。約150年の間に、ペルガモン王国は、北はマルマラ海、南は地中海に達する大国となるが、アッタロス三世が王国をローマに委ねるという遺書を残して終焉する (紀元前133年)。すでにマケドニアの凋落、ローマの台頭を見越していたということになる。反乱もあったが、アナトリアの国々の援助を受けたローマ軍の鎮圧が勝りペルガモン王国はローマに帰属する。

ペルガモンのアクロポリスの最上部は上市とよばれ、アテネ神殿やゼウスの大祭壇などの跡が残っている。斜面には野外劇場も見える。ゼウスの祭壇は、1865年頃にドイツの考古学者が発掘を開始し、いまはベルリンのペルガモン博物館に再現されている。ドレスデンのツヴィンガー美術館の絵画とおなじように、第二次世界大戦中にはソヴィエトにあり、戦後返還されたという。

上市にあった図書館は、エジプトのアレクサンドリアにあった図書館に匹敵する規模を誇り、脅威を感じたエジプト側が、紙の原料パピルスの輸出を差し止めたという故事が伝えられている。代用品としての羊皮紙が開発され、羊皮紙を意味する英語のPerchment の語源はペルガモンであるという。ペルガモン王国の富と繁栄を物語る一例である。

ペルガモンのアクロポリスにあるトラヤヌス神殿  撮影:2012/03/25
ペルガモンのアクロポリスにあるトラヤヌス神殿 撮影:2012/03/25

上市に今ひときわ鮮明に姿を見せているのは白亜の大理石の柱である。ドイツ考古学研究所によって修復されたというトラヤヌス神殿である。ローマ皇帝トラヤヌス (在位98 – 117年)は、ローマ帝国の版図を最大にした人物である。ペルガモン王国の終焉から二百年余を経て、古代ギリシャの建築の様式はそのままに、しかし、皇帝の名前を冠することによって、支配者の権威や影響力を示すローマ化への推移が見て取れる。

上市につづく中市にはアクロポリスで最も古いとされるデメテル神殿などの遺跡が残る。アテネのアクロポリス(約150メートル) に比べればかなりの高度を有するペルガモンのアクロポリス (約340メートル)では、段々畑を作るような形でアクロポリスが構築されていったのではないかと思える。

アスクレピオンの聖域に通じる柱廊の参道  撮影:2012/03/25
アスクレピオンの聖域に通じる柱廊の参道 撮影:2012/03/25

アクロポリスの裾に広がった下市は現在の市街地をふくむ地域である。そのはずれの谷間、遠くにアクロポリスを望む位置にアスクレピオン遺跡が広がる。治癒を司る神アスクレピオスに因んだ聖域で、柱廊のある参道を通って入っていく設計になっている。神に願って病気の回復を望むしか方法がなかった時代から、次第に科学的な実験要素を加えて発展していく実践活動の一大医療拠点となり、アナトリアに一つしかない病院施設となった聖域である。アスクレピオンの建設はヘレニズム時代の紀元前4世紀に始まるとされるが、上述のトラヤヌス皇帝のあとを継いだ第14代ハドリアヌス帝 (在位117 – 138年)の治世時に、現在の遺跡の形で残っているのが出来上がった。ハドリアヌスの名を冠したローマ建築様式の図書館もあった。第16代マルクス∙アウレリウス皇帝 (在位161 – 180年)がこの地を訪れた記録が残っているという。

マルクス∙アウレリウスの医師を務めたガレンは、西暦129年にペルガモンに生れた人で、この地で修行を積んだ後、コリントやアレクサンドリアで医学教育を行なった人物である。動物の解剖や剣闘士の治療によって解剖学や生理学の知識を積み重ねた学者として、ヒポクラテスと並び称される医学の先駆者である。針、ナイフ、ピンセットなどが遺跡から発掘されており、診療内科的な治療に重点を置きながらも、最終的には外科手術も採用されたとされる。

回廊と野外劇場   撮影:2012/03/25
回廊と野外劇場  撮影:2012/03/25

聖域内にわずかに残る建造物の中に縦縞の溝が彫られた柱の並ぶ回廊があり、ペルガモン王国時代に建てられたものとされる。回廊は聖域をコの字形に囲んでいたことが分かっており、治療の一環としての体操や運動に使われていたと考えられている。回廊の後ろにある野外劇場の存在などをみると、近代的な総合ヘルスセンターの趣がある。

治療棟に通じる地下道  撮影:2012/03/25
治療棟に通じる地下道 撮影:2012/03/25

聖域の中央にある入り口から長い地下道に入ることができる。入り口の傍にある泉は、聖なる泉とよばれいまも水が湧き出ているが、近年の調査で微量のラジウムが含まれていることが判明したという。

ペルガモンを訪れた日の午後は少し汗ばむほどの陽気となったが、治療棟に通じるこの地下道は涼しく、夏でも一定の温度を保つワインセラーを想定させた。床には大理石が敷かれ、ところどころに設置された天窓が蛍光灯の役割を果たしていた。

二階部分が崩れ落ちた治療棟  撮影:2012/03/25
二階部分が崩れ落ちた治療棟 撮影:2012/03/25

地下道は個室の連続のような治療棟に続く。今は二階や天蓋部分が崩れ落ちているが、地下道と同じように夏涼しく冬暖かい建物であっただろう。日光浴や水浴もできる構造をもち、建物の側面にあるくぼみに水を貯める設計がなされている。いまでいうラジウム温泉療法が効を奏していたのかも知れない。

谷間にあふれる春の草花とその合間に埋もれる遺跡  撮影:2012/03/25
谷間にあふれる春の草花とその合間に埋もれる遺跡 撮影:2012/03/25

アスクレピオン遺跡のまわりの谷間は、ちいさなうねりが延々と続く平野で、黄色や白の花畑となっていた。そのあいまには、遺跡の一部とみられる岩肌があちこちで顔をのぞかしている。三世紀におこった地震によって遺跡は崩壊し、衰退するローマ帝国も最後はコンスタンティヌス帝による現在のイスタンブルへの遷都となる (330年)。台頭する一神教のキリスト教によって多くのギリシャの神々は忘れられていく。

マルクス∙アウレリウスの医師を務めたガレンは、この地にあった剣闘士学校でも教鞭をとったが、剣闘士が闘った円形競技場はまだ発掘に手が付けられずに地下に眠っているという。忘れられたギリシャの神々も姿を現すかもしれないし、ベルリンのペルガモン博物館に収蔵されている石像のなかにも故郷にもどってくるものがあるかもしれない。

午後のお茶を楽しむ地元の婦人たち  撮影:2012/03/25
午後のお茶を楽しむ地元の婦人たち 撮影:2012/03/25

その日の宿泊地イズミルにむけてペルガモン離れたのは午後の4時頃であった。なんとなく祖先の遊牧民を感じさせる趣で、野原にすわってお茶の準備をしていた女性たちが、快く写真撮影に応じてくれた。「チャイですか」と聞くと「チャイコフィスキー!」という洒落た冗談が帰ってきた。チャイとコーヒーの両方ですという意味にちがいない。背後にあった建物は軍の小さな駐屯地で、将校たちの奥さんたちかもしれないとおもったが、それでなくても写真をとるのに忙しくてグループから遅れがちで、話を続ける余裕がなかった。ゆったりとした国民性が垣間見える風景であった。

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