トルコ紀行

題目の選定



(10)ペルゲの古代都市遺跡とアンタルヤ考古学博物館

アンタルヤのホテルから見えたトロス山脈  撮影:2012/03/28
アンタルヤのホテルから見えたトロス山脈 撮影:2012/03/28

パムッカレから次の宿泊地アンタルヤへは約半日の行程であった。「トロイ遺跡」の項で触れたように、ギリシャ人の植民活動は紀元前9世紀頃にはアナトリアの西海岸に及びイオニア地方を生んだ。第二波の活動はイオニアから地中海の東西に広がり、紀元前8世紀頃にはアンタルヤの近郊にも及んだ。

このあたりでは3,000メートルを越える峰の連なるトロス山脈 (Taurus Mountains)が海岸線にせまるので、内陸部からの冷たい北風が届かず、冬でも暖かい地中海性気候が生まれる。アンタルヤの人口は100万人前後、南仏のリヴィエラに匹敵する保養地としてTurkish Riviera と呼ばれる地域の一画を成す。

パンフィリアの遺跡群を示す模型図(アンタルヤ考古学博物館)  撮影:2012/03/28
パンフィリアの遺跡群を示す模型図(アンタルヤ考古学博物館) 撮影:2012/03/28

地中海とトロス山脈にはさまれた東西に細長い地域は、古代にはパンフィリアと呼ばれた。アンタルヤ考古学博物館にあった模型図には、パンフィリアの古代遺跡として四つの場所が示してあった。アンタルヤ湾の奥にある港町アンタルヤは、模型図上では、13世紀のルーム∙セルジューク朝支配の時に建てられた大きなミナレット (尖塔)で示されている。見学できた遺跡はペルゲとアスペンドス。アンタルヤの東僅か15キロにあるペルゲはアンタルヤへの途上で、40キロ東のアスペンドスは二日目の午前中に訪れた。1時間半という限られた時間ではあったが、二日目の最後にアンタルヤ考古学博物館を見学した。

アッタロス朝とも称されるペルガモン王国(紀元前282-133)は、ペルガモンの稿で触れたように、アレキサンダー大王の死後アナトリア西部を支配したヘレニズム国家のひとつである。最後の王アッタロス3世の遺言で、紀元前133にローマ帝国の支配に入ったことも前述したが、その直前、アッタロス2世(在位、紀元前159-138)は、その強大な海軍の基地を求めて、良港として知られていたスィデを攻略したが失敗に終わり、西にある現在のアンタルヤに上陸しアッタリアと名づけたと伝えられる。

ペルゲは海岸線から20キロ入った内陸部にあった古代遺跡で、西暦50年頃、パウロが第一回の伝道旅行で訪れたたことでも知られる。交易は近くにあるアクス川が支えていたが、土砂の堆積が進み、西暦4世紀以後の東ローマ帝国時代の影響はほとんどないまま、衰退していった。

ローマ時代の大競技場の跡  撮影:2012/03/27
ローマ時代の大競技場の跡 撮影:2012/03/27

古代都市に入場する前に隣接する大競技場を訪れた。アナトリアでは二ヶ所しかないという貴重な古代ローマ時代の遺跡である。幅は30メートル程度だが奥行き230メートルを越える楕円形の大競技場で、映画「ベン∙ハー」のなかで、馬のひく戦車の競技場面を思い起こさせる。12,000名を収容できたというこの施設は、西暦2世紀に建造されたもので、三方向の観覧席は残っているが入場門のあった南側は残っていない。競技場の後方は、古代都市のアクロポリスがあった丘である。競技場の近くには、15,000名を収容できる野外劇場が残っているが、良好な保存状態を誇るアスペンドスの野外劇場を翌日見学することになっていた。

古代ローマの都市遺跡というのは、エフェソスやペルガモンで見てきたように、アゴラや柱廊で囲まれた広場など、どこもほぼ同じような構造がみてとれる。反復をさけるためこれらは、この稿と次のアスペンドスの稿では割愛する。全般的にみて、ペルゲでは石片や瓦礫の散乱が多く往時を偲ぶのが難しいところも多々あった。

アレキサンダー大王の大理石像(アンタルヤ考古学博物館)   撮影:2012/03/28
アレキサンダー大王の大理石像(アンタルヤ考古学博物館)  撮影:2012/03/28

アンタルヤ考古学博物館の圧巻はペルゲ出土の多数の大理石像である。ギリシャ神話に登場するゼウス、ヘルメス、アテナなどのほかにアレキサンダー大王などを並べた大ホールと、ローマ皇帝やその皇后たちを陳列したホールに分けて展示するほどの大規模なものである。ほとんどのものが西暦2,3世紀頃に製作されたとの説明があるので、大競技場や野外劇場の建設された時期とほぼ同じ時期となる。

パンフィリアのギリシャ人植民都市は、紀元前546年にアケメネス朝ペルシャの支配下にはいる。紀元前333年のアレキサンダー大王のペルシャ東征軍が近づいた時、ペルゲでは道案内を送ったという逸話が残っていて、当時の住民のペルシャ隷属からの開放の喜びを伝えている。アレキサンダー大王はペルゲを根拠地として周辺への進軍を続行した。よく知られているように、最終的にはインダス川を越えてインドにまで遠征した。

ヘレニズム時代の城壁と城門  撮影:2012/03/27
ヘレニズム時代の城壁と城門 撮影:2012/03/27

古代都市のあちこちに、ヘレニズム国家の一つセレウコス王朝の治世下(紀元前312-63)、紀元前2世紀に建設されたという城壁、城門が残っている。セレウコス朝は、チグリス、ユーフラテスの二つの大河の流域であるメソポタミア(イラク)地方を拠点に、イラン、シリアをもその支配下におき、アナトリアに進出した強大な国家であった。

ペルゲ遺跡の城壁に続く二つの塔を再現した模型(アンタルヤ考古学博物館)  撮影:2012/03/28
ペルゲ遺跡の城壁に続く二つの塔を再現した模型(アンタルヤ考古学博物館) 撮影:2012/03/28

アンタルヤ考古学博物館にあった模型をみると、城門は背の高い監視塔の役割も兼ねていたようにみえる。この地域が堅固な守りを必要とする政治的状況にあったのであろう。スィデを攻略したペルガモンの海軍が失敗しアンタルヤに上陸したという故事から考えて、ペルゲはセレウコス朝とペルガモン王国が対峙する地点であったのかも知れない。前にも見たように、ペルガモン王国は、紀元前133年にローマに帰属することを決める。これを機にアナトリア全土は次第に古代ローマの世界となっていく。

博物館の模型は、城壁に囲まれた馬蹄形の広場を示している。壁に凹み(壁がん)があるのも見て取れる。広場の端にある門は、両側に柱の並ぶ長い通りに続く。この見事な景観の設計者は、プランキア∙マーニャ(Plancia Magna)という伝説的な女性で、父は知事、母はアルテミス神殿の巫女であったという。西暦120-122年頃に設計、建設が実行され、城壁の内面や床を大理石で被い、壁がんには彼女の寄進した多くの皇帝や皇后たちの大理石像が飾られたという。ヘレニズム時代の遺構を温存しつつそれに新たなローマの息吹を与えたことは画期的な創意工夫であっただろう。西暦120-122年といえばハドリアヌス帝(在位117-138)の時代に相当する。

列柱で飾られた運河のある通り  撮影:2012/03/27
列柱で飾られた運河のある通り 撮影:2012/03/27

列柱で飾られた通りは、雑草の合間に石片が散乱する遺構であった。約300メートルの奥行きがあり、中央にあったという水路の跡も散見された。背後のアクロポリスへの参道であり突き当たりには泉亭が残っている。丘から水を引いてきたと考えられる。

浴場に水を供給する水槽の跡  撮影:2012/03/27
浴場に水を供給する水槽の跡 撮影:2012/03/27

水利事業はローマ人の得意とする分野であるが、比較的保存のよい浴場の跡が残っていた。ローマ帝国の浴場は大型の大衆浴場で、脱衣室、冷浴室、微温浴室、高温浴室などのほかに、運動場や散歩用の中庭などを備えた複合施設である。微温浴室、高温浴室のために加熱装置をおさめた地下室もあったようである。

フリギダリウムと呼ばれる冷浴室  撮影:2012/03/27
フリギダリウムと呼ばれる冷浴室 撮影:2012/03/27

ローマの大衆浴場のなかで、冷浴室は水風呂あるいはプールのような部分でフリギダリウム(Frigidarium)とよばれた。微温浴室や高温浴室のように熱の影響をうけないので、壁がんには大理石像なども飾られたという。テルマエ(Thermae)とよばれた大衆浴場は、ローマ人の生活の一部であり、飲食、運動、読書、議論のできる場所であり、皇帝は人民を喜ばせ、自身の名を後世に残すために、浴場、大競技場、野外劇場を建設した。

皇帝ハドリアヌス(アンタルヤ考古学博物館)  撮影:2012/03/28
皇帝ハドリアヌス(アンタルヤ考古学博物館) 撮影:2012/03/28

アンタルヤ考古学博物館の展示には、頭部だけを並べた一画もあるが、ほとんどが等身大の大理石像で、重要とおぼしき人物は一人ずつ壁につくられた凹みに丁重に陳列してある。城門の後ろの広場の壁がんにもこのように立っていたにちがいない。

競技場や野外劇場の建設された西暦2世紀は、古代ローマ帝国を最大にしたトラヤヌス帝(在位98-117)、続いて帝国内の主要な防衛線を視察し尽くしたハドリアヌス帝(在位117-138)を輩出した黄金の世紀である。ついでながら、ユーフラテス、ティグリス川領域のメソポタミア地方にまで遠征して、帝国の版図を最大にしたトラヤヌス帝(在位98-117)はここまでが最後で、インダス川を越えてインドにまで足をのばしたアレキサンダー大王には及ばなかった。さすがの旅する皇帝ハドリアヌスもこの東の辺境メソポタミアには足を運んでいない。

若きアポロの大理石像(アンタルヤ考古学博物館)  撮影:2012/03/28
若きアポロの大理石像(アンタルヤ考古学博物館) 撮影:2012/03/28

1971年の発掘で発見されたほぼ完全な姿のアポロの像は、良質な大理石を使った例で、西暦2世紀の作品であるなどと書いた説明が付けてあった。エフェソスの稿で触れたように、アポロはゼウスを父親とし、双子の妹のほうはアルテミスで、ペルゲでもアルテミス信仰が盛んであった。ギリシャ神話の神々やローマ皇帝の大理石像の立ち並ぶペルゲが、いかに壮麗な都市であったかを語る見事な彫刻である。西暦2,3世紀のペルゲはアナトリアで最も美しい都市であったといわれている。

ローマ人は西暦2世紀を自ら黄金の時代と呼んだ。トラヤヌス帝やハドリアヌス帝たちによって築きあげられた「ローマの平和」(パクス∙ロマーナ)の世紀であった。パンフィリアの中心都市ペルゲも平和を謳歌したことに違いないが、その栄光は、膨大な大理石像を擁する考古学博物館のなかで輝いていた。

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