トルコ紀行

題目の選定



(19)イスタンブルとオスマン帝国

鎖による金角湾の封鎖を示す絵と鎖の実物  撮影:2012/04/05
鎖による金角湾の封鎖を示す絵と鎖の実物 撮影:2012/04/05

東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルの陥落寸前を描いた絵画が、イスタンブル考古学博物館に展示されている。マルマラ海が大陸に切れ込んだところが金角湾で、そこから進入するオスマン軍に対抗して、湾の入り口や奥まった地点に鎖を敷設した様子が描かれている。鉄の鎖の実物も絵の前に展示されている。

金角湾の左に見える半島が現在の旧市街で、後方には半島を横切るテオドシウスの大城壁も描かれている。半島の中央にひときわ大きくみえるのがアヤソフィアにちがいなく、対岸には城壁でかこまれたジェノヴァの商人や外交官などの居留地があり、城壁の一部を成すガラタ塔も見える。地中海交易で繁栄した海洋国家のヴェニスやジェノヴァにとって、海峡地帯の通行は重大な関心事であったが、特にジェノヴァは黒海沿岸の貿易を独占した。

メフメト2世の歴史に残るコンスタンチノープル攻略は、ジェノワ居留地の後方にマルマラ海から船を陸揚げさせた後、金角湾の奥深い地点を船で渡り、大城壁の背後からコンスタンチノープルを陥落させるものであった。 1453年5月29日、コンスタンチノープルを占拠したメフメト2世は、その日のうちにアヤソフィアに赴き、これを没収してモスクにすることを宣言したと伝えられている。聖堂内外に改変が加えられてアヤソフィア∙ジャミイとなった。オスマン帝国は第7代目のスルタンになって、首都はブルサからイスタンブルに移ることになった。

アヤソフィアの一隅にあるミフラーブ  撮影:2012/04/04
アヤソフィアの一隅にあるミフラーブ 撮影:2012/04/04

アヤソフィアの改変で欠くことの出来ないものは、勿論、メッカの方向を指し示すミフラーブで、一階の東側の一角に配置されている。それほど大きくはないが、黄金の輝きを放つ豪華なものである。

アヤソフィアの支柱にあるアラビア文字の丸い額  撮影:2012/04/04
アヤソフィアの支柱にあるアラビア文字の丸い額 撮影:2012/04/04

アヤソフィアをモスクとして使用するための改変は最小限に留められたと伝えられるが、ミフラーブのほかには、支柱に取り付けられている大きな丸い額が目に入る。アラビア文字でムハンメドや正統カリフの名が記されているという。偶像を嫌って漆喰を塗り込んだ部分も多々あった筈で、アーケードの上にある半円形壁面(ティンパヌム)の基部にある聖人像にその痕跡を見ることができる。両側のティンパヌムにそれぞれ七人の聖人の像が描いてあった。

ティンパヌムの基部に僅かに残る聖人像  撮影:2012/04/04
ティンパヌムの基部に僅かに残る聖人像 撮影:2012/04/04

トルコ共和国政府になってからアヤソフィアは無宗教の文化財となり、1950年代には漆喰を除去してモザイク画の調査が実施された。現在完全な形で残るのは北側のティンパヌムの中央にあるヨハネス∙クリュソストモスという名説教で知られた4世紀の大主教である。これらのモザイク画の製作は9世紀後半とされている。

敵対した東ローマ帝国の象徴的建築であるアヤソフィアを破壊することなく、改変も必要最小限に留めたことは、歴史上あまり例をみない事例ではないだろうか。メフメト2世はこの壮大な建築物にたいする畏敬の念から保存したいと願ったと思われる。偶像は好まずとも堂内のモザイク画は燦然と輝いていたに違いない。モザイク画に感銘を受けたアブデュルメジト1世(在位1839−1861)の命により、漆喰が剥がされ、本格的な調査が行われたこともあった。

アヤソフィアは建築当初から多くの困難に遭遇し、537年の完成後もドームの修理が必要になったり地震による破壊も起った。二大帝国そして共和国の時代を経て、1500年近くの姿を今に伝えているのは奇跡的である。

トプカプ宮殿の中門  撮影:2012/03/22
トプカプ宮殿の中門 撮影:2012/03/22

コンスタンチノープルを占拠したメフメト2世は、7年後の1460年代にはトプカプ宮殿の建設を完成させている。最外壁に設けられた総門は「帝王の門」とよばれ、それをくぐると大きな中庭に出て、その向こうに「儀礼の門」と呼ばれる中門が待っている。

トプカプ宮殿内の建物  撮影:2012/04/03
トプカプ宮殿内の建物 撮影:2012/04/03

中門をくぐると平屋建ての建物があらわれるが、後世になって多くの増改築がおこなわれたため初期のものは残っていない。比較的小さな建物や部屋が連なり、ハーレムであった区画や厨房などが残りいまは博物館となっている。キョシュクはイランからトルコに伝わった建築で、キオスクあるいはキヨスクと同語である。トプカプ宮殿内の平屋建ての建物は、キョシュクの伝統を残すものである。

トプカプ宮殿の裏手にあるバーダッド∙キョシュク  撮影:2012/04/04
トプカプ宮殿の裏手にあるバーダッド∙キョシュク 撮影:2012/04/04

中庭やいくつかの建物を通り抜けて裏手に出れば、優雅なあずまやに到達する。一度征服していたイラクのバグダードを、約100年後の1638年に再征服したのを祝って建てられたもので、バーダッド∙キョシュク(バグダート∙キオスク)と呼ばれる。

オスマン帝国の歴代のサルタンにとっては、金角湾が眼下に見晴らせるこの地点は、地の利に思いを馳せ版図の拡大を考えるには最適の場所であったに違いない。1300年頃にアナトリアの西北部に起こったオスマン帝国は、最盛期の16世紀中葉、第10代スレイマン1世(在位1520−1566)の統治下にその判図は最大となる。ヨーロッパでは隣国ギリシャのみならずバルカン半島を越えてウィーンにせまり、アフリカではエジプトやモロッコに達した。

コンスタンティノープルを攻略したメフメット2世が征服王(the Conqueror)と呼ばれるのにたいし、スレイマン1世は壮麗王(the Magnificent)と呼ばれる。この時期、トルコ最大の建築家ミマル∙スィナンを輩出する。

グランド∙バザールへの入り口  撮影:2012/04/03
グランド∙バザールへの入り口 撮影:2012/04/03

イスタンブルの最大観光拠点になっているグランド∙バザールへは、いくつかの門から入っていくようになっているが、そのひとつの前に立つと1461の数字が見える。コンスタンティノープル占拠後8年にして市場の整備が整ったことになる。CAPALICARSI(カパル∙チャルシュ)の文字もみえるが、これは屋根付きの市場という意味である。チャルシュは商業空間のことで、貴重品を扱う伝統のために強固に作られたベデステンとよばれる区域や、隊商宿であったハンと呼ばれる区域、一般通り抜け商店区域、それに巨大なカパル∙チャルシュなどを総称する言葉である。

オスマン帝国以前には厩舎であった場所に、メフメト2世はまず貴重品交易用の二つのベデステンを建設したとされるので、それが今日も強固な門に姿を留めていると思われる。東西交易の発展を期したメフメト2世の遺産である。繁栄にともなって周囲に隊商宿や商店が付け加えられて大規模チャルシュが出来上がった。

グランド∙バザール内の商店  撮影:2012/04/03
グランド∙バザール内の商店 撮影:2012/04/03

グランド∙バザール内には、3,000軒とも4,000軒ともいわれる店がひしめきあい、宝石、貴金属、皮革製品、絨毯、衣類、陶器などのあらゆる特産品が揃う。城壁の外壁にも露天の店がへばりついて城壁を確認するのが難しい程である。オスマン帝国時代の東西交易の繁栄は今なお健在で、世界各国からの観光客が美しく装飾された屋根の下を往来する。

トルコ最大の建築家ミマル∙スィナンによるスレイマニエ∙ジャミイ  撮影:2012/03/22
トルコ最大の建築家ミマル∙スィナンによるスレイマニエ∙ジャミイ 撮影:2012/03/22

トルコ最大の建築家ミマル∙スィナンが、壮麗王スレイマン1世の統治下1557年に7年かけて完成させたスレイマニエ∙ジャミイは、均整のとれた堂々とした建物である。オスマン建築の最高傑作と謳われる。スィナンが責任者として建てた建造物は橋なども含めれば500近くになるといわれる。地震の被害を受けた建物も少なくないが、このスレイマニエ∙ジャミイはひび割れもない傑出した作品となった。遺跡公園地区とは別個の世界遺産地区に建っている。金角湾の船着場のあたりから威容がよく見える。大ドームがアヤソフィアのそれより僅かに小さかったために、スィナンはスレイマン1世の怒りをかったという逸話が残る。

スィナンはカッパドキアのカイセリ出身で、キリスト教徒の家に生まれたとする説もある。自身はイスラム教徒で、スレイマン1世以後さらに二人の君主に仕えた。アヤソフィアの修理に従事したことがあり、その設計様式の影響を受けたといわれている。完成度の高い内部空間にくらべればやや不恰好なアヤソフィアの外観に比べて、スレイマニエ∙ジャミイは内部空間と外観がよく調和した完成品の姿をみせている。

ブルー∙モスク(スルタン∙アフメット∙ジャミイ)  撮影:2012/04/03
ブルー∙モスク(スルタン∙アフメット∙ジャミイ) 撮影:2012/04/03

ミマル∙スィナン以後のモスクで最も有名なものが、第14代のスルタンであるアフメット1世(在位1603−1617)の時代に完成したスルタン∙アフメット∙ジャミイである。ブルー∙モスクの愛称でしられる。前述したように、ヒポドロームの東隣りにあり、イスタンブル到着の日、美しい夜景として目に入ったモスクである。

ブルー∙モスクの内部  撮影:2012/04/04
ブルー∙モスクの内部 撮影:2012/04/04

ブルー∙モスクのドームは像の足と呼ばれる巨大な柱で支えられている。個々のドームはそれぞれ異なったデザインをもち、かの有名な青色を基調とするイズニック∙タイルが用いられている。コンスタンティノープルがイスタンブルとなってから約150年が経っていたが、ブルーモスクの建設に要した経費が、その繁栄も下り坂になった帝国にとって大きな負担になったといわれている。設計者メフメト∙アーは西ヨーロッパ生まれのキリスト教徒であり、そのせいかステンドグラスを多く採用している。

アヤソフィアに隣接するアフメット3世の泉亭  撮影:2012/03/22
アヤソフィアに隣接するアフメット3世の泉亭 撮影:2012/03/22

前述のように、メフメト2世がコンスタンティノープルを陥落させたその日からアヤソフィアは格式高いジャミイとなった。アヤソフィアの北端はトプカピ宮殿の城壁に近接しているので、オスマン帝国の君主がトプカピ宮殿から礼拝にでかけるのに便利であっただろう。宮殿の外壁とジャミイの間の狭い空き地に、アフメット3世(在位1703−1730)の時代に作られた優雅な泉亭が建っている。トルコ∙ロココ建築の秀作といわれる。

オスマン帝国の貴族階級は18世紀に入ると西欧化の傾向を強め、バロック建築、ロココ建築の装飾を取り入れるようになる。泉亭の両側のアヤソフィアとトプカプ宮殿に急ぐ観光客は、泉亭の傍を足早に通り過ぎていくが、見過ごすには惜しい優雅な建物である。イスタンブルの庶民への給水設備として、水路の末端に多くの貯水槽を設けたようだが、このように豪華なセビル(泉亭)があったのは、君主たちの通り道であったからであろう。

ボスフォラス海峡から望むドルマバフチェ宮殿  撮影:2012/03/23
ボスフォラス海峡から望むドルマバフチェ宮殿 撮影:2012/03/23

トプカピ宮殿にかわる建物としてバロック様式のドルマバフチェ宮殿ができたのは1855年であった。完成後、オスマン帝国末期のスルタンの何人かはトプカプ宮殿からこちらに居を移した。600メートルの横幅がある豪華絢爛な建物で、船にのって宮殿に入るよう設計されている。西欧化に力を注いだ時代を象徴する建物であるが、旧態然とした体制が近代化を阻んでいたし、広大な支配地域の各地で独立運動も始まっていた時代である。

ドルマバフチェ宮殿完成の2年前に、ロシアとのクリミア戦争が勃発した。ロシアの勢力拡大を危惧したイギリス、フランスの支援を得て辛うじてクリミア戦争には勝利したが、列強はオスマン帝国をすでに瀕死の病人とみていた。最悪の事態は、第一次世界大戦でドイツ側について参戦して敗戦を迎え、パリ郊外で結ばれたセーブル条約によって、本土外の領土を放棄させられ、本土のアナトリアも連合軍の分割管理におかれたことであった。アンカラの稿で述べたように、この存亡の危機を救い近代化を強行したのはムスタファ∙ケマル将軍であった。

トルコ共和制国家成立後、大統領となったケマル∙アタチュルクが、首都アンカラではなくイスタンブルで執務するときは、ドルマバフチェ宮殿を使用した。1938年11月10日、執務中に宮殿で亡くなった。

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