東ヨーロッパ紀行

題目の選定



(8) 博物館島とペルガモン博物館

ウンター·デン·リンデンから臨む旧博物館  撮影:2014/05/05
ウンター·デン·リンデンから臨む旧博物館 撮影:2014/05/05

ウンター·デン·リンデン通りのバス停からは、博物館島にある美術館、博物館のうちで最も早く1830年に開館した旧博物館が見える。プロイセンの王室が収集した美術品の収蔵と展示を目的に建設された建物で、その新古典主義様式は建築家シンケル(Karl Schinkel)の代表作といわれている。プロイセン王ヴィルヘルム3世がシンケルに建設を依頼したもので、1845年まで王立博物館と呼ばれた。現在は古代ギリシャの美術品を展示している。父王3世の後を継いだヴィルヘルム4世が、1841年に、この一帯を芸術と科学の中心地とするとしその後の発展の基礎を築いた。

旧博物館の右(東)と左(西)を流れるシュプレー川とその支流(Kupfergraben)が中州を形成し、これが博物館島と呼ばれる所以で、一つの美術館と四つの博物館がある。そのなかの一つであるペ ルガモン博物館に午後の自由時間を充てることにした。ペルガモン博物館の正面入口は、旧博物館の左横を流れる支流に沿って奥に進み、支流に架かる短い橋を渡る。博物館は「コ」の字形の建物でその両翼の奥が正面入口である。

マロニエの花が咲く博物館島の入口付近  撮影:2014/05/05
マロニエの花が咲く博物館島の入口付近 撮影:2014/05/05

午前中の市内観光は旧博物館の右横で最後の小休止となった。道路脇には白いマロニエの花が咲き、前方に旧国立美術館が見えた。同行した地元のガイドさんとの立ち話から「美術館も博物館も一律に月曜日は休館というのがヨーロッパ全体でまだ一般的だと思うけど、最近ベルリンでは観光客の便宜を考えて休館日を分散する試みが始まっている」という耳よりの話を聞いた。「午後にペルガモン博物館へ行くのなら、旧国立美術館の前に見えるあの回廊のところから左に行ったらすぐわかります。今日は月曜日だけど開いていますよ」と教えてくれた。

博物館島で旧博物館の次に開館したのは新博物館(1859)であった。旧国立美術館がこれに続き(1876)、新博物館に続く回廊も作られた。残る二つの博物館はボーデとペルガモンで、それぞれ1904年と1930年の開館である。博物館島の5館は1999年に世界遺産となった。

博物館島では長期に亘る全面的な改装工事が進行中で、旧国立美術館がいち早く2001年に再開業した。これに続いたのがボーデ博物館で、6年間の閉館が2006年に終わり、主にビザンティン美術と彫刻美術を展示している。旧博物館の裏手にある新博物館は、第二次大戦中、残ったのは外壁のみという大きな被害を受け、改装というよりもむしろ再建工事となり2009年に開館した。残る改装工事は2012/2013年に開始し、ペルガモン博物館、旧博物館の順に行なわれる予定という少し古い案内文を見かけた。目的のペルガモン博物館では改装作業が始まっている筈であった。

建設工事の進む新博物館付近   撮影:2014/05/05
建設工事の進む新博物館付近 撮影:2014/05/05

旧国立美術館から新博物館に向かう回廊の付近はちょっとした建設現場の観を呈していた。新博物館の傍に建設するという総合案内所を兼ねた中央入場口に関連する工事と思われた。完成すると新、旧博物館へだけではなく、中洲の一番奥のボーデ博物館とその手前のペルガモン博物館へと地下回廊が通じるという。

午前中の市内観光の折に、ウンター·デン·リンデンに沿う建設現場に青いパイプが縦横に走っているのを見たが、シュプレー川に近いため、排水作業がしばしば不可欠になると地元ガイドが説明していた。博物館島でも同じ青いパイプが散見され、中州における地下水対策を示していた。

旧国立美術館(右)と新博物館(左)の奥に見えるペルガモン博物館  撮影:2014/05/05
旧国立美術館(右)と新博物館(左)の奥に見えるペルガモン博物館 撮影:2014/05/05

旧国立美術館を右手に見て、回廊伝いに新博物館の横を行くと、ペルガモン博物館の位置を示す赤い垂れ幕が見えた。新装なった旧国立美術館と新博物館の明るい煉瓦の色に比べるとペルガモン博物館はいかにも年代を経た感じで、高く上がったクレーンも見え確かに改装工事が進行している様子であった。

第二次大戦前の姿に復元された新博物館は、エジプト美術と先史時代の遺物を展示している。旧国立美術館は19世紀の彫刻と絵画の収集数でドイツ有数の美術館となっている。18世紀以前の絵画と20世紀の美術品は、ティーアガルテンにある新国立美術館やその他の新しい美術館に移管されている。

ペルガモン博物館への臨時の入口  撮影:2014/05/05
ペルガモン博物館への臨時の入口 撮影:2014/05/05

新博物館とペルガモン博物館との間にある細い道に入るとペルガモン博物館へ行く人の列があった。行列はそれほど長くはなかったが、一度に入る入数を制限していた。普段は荷物の搬入にでも使っているような入口であった。午前中のガイドさんは、正面入口からの入場は改装工事のために不便なのか、現在の入口はここだけであることを知っていて、この入口を教えてくれたのかなと考えつつ順番を待った。

館内に入るとすぐに、この博物館を代表する展示物の一つであるメソポタミア からのイシュタル門があり、エーゲ海に面したギリシャの植民市ミレトゥスの市場門や古代ローマの美術を展示する部屋を隔てて、もう一つの代表的収蔵品であるペルガモンの大祭壇があった。臨時の入口から入場したことにより、すでに、「コ」の字形の博物館の最奥部にいた。時間の余裕のない観光客にはこの入口が最も手っ取り早い、と判断した午前の地元ガイドさんの親切でもあったのかとも思った。

ドイツの考古学者によるペルガモンのアクロポリスの発掘は、イシュタル門の発掘に先んずることおよそ20年で、収蔵されたペルガモンの大祭壇に因んで博物館の名がつけられた。

麓から遠望したペルガモンのアクロポリス  撮影:2012/03/25
麓から遠望したペルガモンのアクロポリス 撮影:2012/03/25

アナトリアとよばれた現在のトルコのペルガモンにあったアクロポリスは、上市、中市、下市に分けられる大きなポリス (都市国家) であった。2012年のトルコ旅行で訪れたペルガモンでは、アクロポリスの裾野に広がった下市の谷間に広がる医療施設アスクレピオンを見学し、丘の頂上に残る遺跡の見学は行なわなかった。カメラの望遠レンズで捉えた上市には、白亜のトラヤヌス神殿の柱と斜面を利用した野外劇場があった (参照2012年トルコ紀行)。この旅で、上市にあった大祭壇の遺跡はペルガモン博物館に復元されていることを知った。このことがこの博物館を訪れた直接の理由であった。

ペルガモン博物館に置かれたアクロポリスの模型  撮影:2014/05/05
ペルガモン博物館に置かれたアクロポリスの模型 撮影:2014/05/05

博物館にあったアクロポリスの復元模型は、その中央に丘の斜面を利用した大きな野外劇場を、その右横に「コ」の字形のペルガモンの大祭壇を展示していた。2012年に遠望したトラヤヌス神殿は、野外劇場の左上にある広場に建っている。この他にも、宮殿、神殿、図書館などの多くの建物が並び、アレキサンダー大王のアナトリアへの東征がもたらしたギリシャ風のヘレニズム文化を生み出したペルガモン王国の堂々たる規模と繁栄を示している。アテネの神殿は野外劇場の真上に位置している。

ペルガモン王国はアッタロス朝ペルガモンとも呼ばれ、王国としての期間は比較的短いものの(紀元前282-紀元前133)、エーゲ海に近い地の利もあって生産活動の活発な富裕な国であった。 エウメネス2世(在位:前197-前159)の時に文化の最盛期を迎え、大祭壇や図書館が建設された。エジプトのアレキサンドリアにあった図書館に次いで世界第二となった図書館は蔵書が20万冊に達し、競争相手のエジプトが紙の原料パピルスの輸出を停止したという話は有名である。これがペルガモンでの羊皮紙の発明につながったことは前回述べた。

紀元前133年に、アッタロス3世が領土を勃興するローマに委ねるとする遺言を残し、アッタロス朝が消滅した。これがローマ帝國の版図を最大にした皇帝トラヤヌス(在位:98 – 117)の神殿もペルガモンのアクロポリスにある背景である。

ペルガモンの大祭壇の全景  撮影:2014/05/05
ペルガモンの大祭壇の全景 撮影:2014/05/05

ペルガモンのアクロポリスの発掘は、トルコでの道路建設に関与していたドイツ人技師フーマン(Carl Humann)が1871年に彫像の一部とみられる破片をベルリンの博物館に送ったことに始まる。博物館でしばらく眠っていた破片の重要性に気付いたのは、彫刻部門の主任をしていた考古学者のコンツェ(Alexander Conze)で、8年間に及ぶ大祭壇の発掘作業は1878年に始まった。祭壇の基盤は一辺がおよそ35mのほぼ正方形であることが判明、トルコ政府の了解のもと、大理石製の祭壇と祭壇壁のフリーズ(帯状に繋がる装飾)がベルリンに移された。1901年に完成した博物館は、大きさと強度の点で大祭壇を収蔵するには不適当であることが判明して10年も経たぬうちに解体され、現在のペルガモン博物館が1930年に完成した。

大祭壇の壁面を飾るフリーズ  撮影:2014/05/05
大祭壇の壁面を飾るフリーズ 撮影:2014/05/05

大祭壇が時にゼウスの祭壇とも呼ばれるのは、ゼウスの支配を終わらせようと山をも投げられるような怪力をもつギガンテス (巨人族) が、オリュンポスの神々に挑んでいる戦いが祭壇を囲むフリーズに描かれているからである。ギガントマキアという宇宙の支配権を巡るギリシャ神話に登場する戦の物語で、主神ゼウスのほかにその妻ヘーラ、かれらの娘と息子のアテナやアポロンなどオリュンポス山の12神の全てをレリーフ (浮き彫り) のなかに見つけることができる。ほかにも多くの神々が参戦し、腰から下が竜の形をしたギガンテスの像も多く彫られている。大祭壇が知恵、芸術、工芸、戦略を司る女神アテナに捧げられたとする考えもあるようである。

ベルリンへの移設に際して、2.3mの高さのフリースは縦に切断して97個の長方形の大理石板に分解された。今なおその規則的な切断の跡を見ることができる。彫像の破片は2,000個に達したと記録されている。祭壇の後部にあったフリーズは、展示室の側壁に配列されている。フーマンの発掘作業にベルリンから助言を与えたコンツェは、後に現地での作業に参加したが、遺跡のベルリンへの移設に関して、「この大いなる遺跡をそれが立っていた大地から引き離し、それが享受していた光や環境をも奪ってしまうことの重大性に心が痛む。しかし、確実に進んでいる完全破壊を食い止めることができたし、町からやってくる石材盗掘者から遺跡を保護することもできた」と複雑な心境を書き残している。

復元された新バビロニア王国のイシュタル門  撮影:2014/05/05
復元された新バビロニア王国のイシュタル門 撮影:2014/05/05

ティグリス川とユーフラテス川が生み出した沖積平野のメソポタミアは、北部アッシリア、南部バビロニアとに大まかに地域区分されることが多い。アッシリアを滅ぼした新バビロニア王国(紀元前625-紀元前539)の城壁ににあった門の一つがイシュタル門である。イシュタルは古代メソポタミアで広く崇拝された女神である。イシュタル門の基調となっている青色は煉瓦の表面に着けられた釉薬の色で、その素地のなかに蛇のような頭をもった獣と牛がやや浮き出ている。

イシュタル門の付近で発掘された楔形文字を印した煉瓦  撮影:2014/05/05
イシュタル門の付近で発掘された楔形文字を印した煉瓦 撮影:2014/05/05

バビロンの発掘調査は1899年にドイツの考古学者によって開始されたが、イシュタル門の発掘現場の近くで、楔形文字を白い釉薬で印した煉瓦が発見され、その解読の結果、新バビロニア王国の王ネブカドネザル2世(在位:前604-前562)が彼の統治下に行なった建設活動を記録しているものであることが判明した。集められた煉瓦の一部が、復元されたイシュタル門の横に置かれたおおきな壁にはめ込まれている。

復元されたバビロン王宮の壁  撮影:2014/05/05
復元されたバビロン王宮の壁 撮影:2014/05/05

楔形文字を配した壁とほぼ同じ大きさのもう一つの壁がイシュタル門の横に展示してあった。これは城壁都市内にあった王宮壁の復元で、イシュタル門と同じ青を基調としていた。尻尾を上に挙げたライオンにの上には渦巻模様の頂きをもったナツメヤシと思われる大きな木が配されている。ネブカドネザル王の記録によく引用されている杉製の屋根が発掘時には見つからず、王宮が実際にどの位の高さであったかは分かってはいない。

新バビロニア王国の最盛期を築いたネブカドネザル2世は、二度の遠征によってユダ王国を滅ぼし、大量のユダヤ人をバビロンに移送した。旧約聖書で語られるバビロン捕囚である。ヴェルディのオペラ「ナブッコ」は、ネブカドネザル2世率いるバビロニアの軍勢がエルサレムを総攻撃するところから始まり、ユーフラテス河畔にあるバビロンの宮殿も登場する。このオペラの原題は「ナブコドノゾール」で、その短縮された題名「ナブッコ」が次第に慣例化した。

バビロン王宮の壁にあるライオンの装飾  撮影:2014/05/05
バビロン王宮の壁にあるライオンの装飾 撮影:2014/05/05

新バビロニア王国の遺跡が残った一つに理由として、煉瓦が単に日干しされたものではなく、高温で焼成した強固な煉瓦であったことが挙げられている。さらにライオンなどの模様部分は、浮き彫り様に見える。博物館発行の冊子によると、まず、模様が浮き彫りに見えるように予めくぼみを付与した型枠に粘土を押し込んで突き固めたとある。和菓子の製造時に梅の花などが彫刻された型枠に材料を詰込むのに似ている。取り出した粘土塊を一度焼成し、煉瓦を配列したときにライオンの模様になるように、模様の異なる個々の煉瓦に種々の釉薬をかけて異なった発色をさせるべくもう一度焼成した。

イシュタル門に描かれた家畜牛の祖先オーロックス  撮影:2014/05/05
イシュタル門に描かれた家畜牛の祖先オーロックス 撮影:2014/05/05

イシュタル門には二種類の動物が描かれているが、一つは現在どこにでもいそうな牡牛の姿をしている。天候神アダトの随獣オーロックスとされる。オーロックスは現在の家畜牛の祖先で、この野生種はヨーロッパでは17世紀に絶滅した。フランスのラスコー洞窟に描かれている牛もオーロックスであるとされる。新バビロニア王国を滅ぼしたペルシャ王国のアケメネス朝は、ユダヤ人を解放してバビロン捕囚を終焉させたが、この頃までにオーロックスはメソポタミアでは絶滅していたとされるので、すでに伝承的な霊獣としてイシュタル門に描かれたのかもしれない。イシュタル門に描かれているもう一つの動物は、蛇のような頭をもった四足獣で龍と記載されたりバビロンの都市神マルドゥクの随獣ムシュフシュとも記載されている。

ピーテル·ブリューゲル作「バベルの塔」  撮影:2014/05/05
ピーテル·ブリューゲル作「バベルの塔」 撮影:2014/05/05

オペラ「ナブッコ」に登場する新バビロニア王国の空中庭園については、それらしき遺跡は発掘されているものの確定には至っていない。空中庭園とバベルの塔がユーフラテス川らしき川をはさんで描かれている絵画もあるが、よく知られた絵として、16世紀のフランドル(現在のベルギー)の画家ブリューゲル(Pieter Brueghel)が1563年に発表したものがある。ウイーン美術史美術館で撮影したものをここに挿入する。1999年に、フランスのストラスブールにある欧州議会のメインタワーがこの塔を模した形で建設されている。

古代メソポタミアに日干煉瓦を階段状に積み上げたジッグラトという建物が存在した。いまも比較的保存状態のよいものがシュメール人の都市国家ウルの遺跡 に残っている。階段状構造の上に塔を組み上げ神殿を備えた。メソポタミア文明は、ティグリス川とユーフラテス川の下流域から次第に北へと広がっていったと考えられており、ウルはペルシャ湾に近い位置にある。紀元前3100年頃に下流域でシュメール人の都市国家が発達し始め、紀元前2700年頃までにウル、ウルクなどの都市国家が生まれた。ジッグラトもこの頃に出現しと考えられている。旧約聖書に登場する「バベルの塔」は、バビロンにあったジッグラトの伝承とする見方もある。

イシュタル門と行列道路を示す模型  撮影:2014/05/05
イシュタル門と行列道路を示す模型 撮影:2014/05/05

博物館の一角においたガラス箱に、イシュタル門と大通り (行列道路) の再現模型が収納されていた。1899年にドイツの考古学者がイシュタル門の発掘を開始した時、かっての肥沃なメソポタミアは砂漠化しており、遺跡は堆積した砂のなかに埋まっていた。地表までの距離が20mもある砂の堆積に埋もれたところもあった。ティグリス川もユーフラテス川もトルコ北東部の山からの雪解け水が流れてくるものであるが、森林伐採が進んだ結果塩分の多い土が流れてくるようになり、農地として使えない砂漠に変化していったとされている。

発掘によってイシュタル門は二重の門であることが判明し、前部は16m、後部は30mの高さがあり、長さ250mの行列道路が門に向って伸びていた。ペルガモン博物館では、建物の制約からイシュタル門の前部のみを復元している。行列道路を守る砦のような塔も、博物館では煉瓦一枚分の薄い壁として再現されている。

バビロンの行列道路とシュメールのギルガメッシュ王  撮影:2014/05/05
バビロンの行列道路とシュメールのギルガメッシュ王 撮影:2014/05/05

イシュタル門につながる行列道路は、幅20-24mであったものを博物館では8 m幅に復元している。王宮壁と同じようなライオンの装飾が施されているが、ここでのライオンの尻尾は上にはあがっていない。発掘現場で整理された煉瓦は、1928年から博物館内で積上げ作業に入り高さ10-12mの壁として再現された。

行列道路の中央に、ウルクという表示と一緒に巨大なレリーフ像が置いてあった。新バビロニア王国の行列道路と同じ部屋に展示されているが、この像はシュメール初期王朝時代のウルク第1王朝の伝説的な王ギルガメッシュで、紀元前2600年頃の人である。シュメール文明はメソポタミアの最古の都市文明とされるが、ギルガメッシュはシュメールで覇権的地位を確立した人物とされウルクに城壁を建造した。ウルクはイラクという国名の由来になったとされる都市国家である。

前述のようにアッシリアは新バビロニアによって滅ぼされたが、それよりおよそ100年前のアッシリアは、バビロニアをふくむメソポタミア全域以外にもシリア、パレスチナを支配する大帝國であった。ギルガメッシュの像は、アッシリアの絶頂期を統治したサルゴン2世(在位:紀元前722-705)がティグリス川流域に建設した都市ドゥル·シャルキンの宮殿から発見された。ギルガメッシュは実在の人物とする説が有力であるが、死後に神格化され多くの神話や叙事詩に登場する。

ウルクにあったイナンナを祀る神殿の一部   撮影:2014/05/05
ウルクにあったイナンナを祀る神殿の一部 撮影:2014/05/05

ウルクにあったエアンナ神殿は1928年から1929年にかけて発掘調査がおこなわれ、その外壁がペルガモン博物館に復元されている。一部はバグダードにあるイラク博物館に保管された。日干し煉瓦でできた建物で、紀元前1400年頃の遺跡と推定されている。バグダードに移された神殿は湾岸戦争の際に略奪にあい行方不明となっている。神殿にはウルクの守護女神のイナンナが祀られた。シュメール語のイナンナはアッシリア語ではイシュタルとなる。

ギルガメッシュの像が置かれた行列道路の両横にある展示室には、シュメール だけではなく、シリアやトルコでの発掘品も多く、新石器時代からはじまる紀元前6000年の歴史をたどることができる。ウルク文化期 (紀元前3200年) にシュメール人によって絵文字に近いウルク古拙文字が発明されて以来、次第に単純化されてシュメール文字となり、以後、種々の楔形文字に発展していく。楔形文字の刻印された粘土板も多く展示され興味はつきなかったがゆっくり見物する時間は残っていなかった。

アナトリアのヘレニズム遺跡であるペルガモンの大祭壇を見物に行った結果、メソポタミア文明の遺産に具体的な形で対面できることになった。ペルガモン博物館の幅広い収集も驚きであった。

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