東ヨーロッパ紀行

題目の選定



(2)ブダペストの二重帝国時代

西岸ブダの展望台から望むダニューブ川  撮影:2014/04/29
西岸ブダの展望台から望むダニューブ川 撮影:2014/04/29

ハンガリーの首都ブダペストは2009年に二日ほど滞在した。ダニューブ、マイン、ラインの三つの川を経由してアムステルダムまで行く船旅の出発点で、宿はダニューブ川に係留されたクルーズ船となった。西岸ブダと東岸ペストの観光の内容は今回も2009年とほぼ同様であったので、詳細は2009年の「西洋見聞 : 中央ヨーロッパ紀行」の項に譲り若干の修正を施した。ここでは、新知見のなかからオーストリア=ハンガリー二重帝国時代のブダペストに焦点をあわせた。

補修工事中であった2009年のマーチャース聖堂  撮影:2009/08/31
補修工事中であった2009年のマーチャース聖堂 撮影:2009/08/31

オーストリア=ハンガリー二重帝国という新しい政治体制が始まったのは1867年。ハンガリー王の戴冠式はマーチャース聖堂で挙行され、オーストリア帝国を統治したハップスブルグ家の最後の二人の当主、フランツ∙ヨーゼフ一世とカール一世が、それぞれ1867年と1916年にハンガリー王となった。二人の政治生命は対照的で、すでに1848年にオーストリア皇帝となっていたフランツ∙ヨーゼフ一世の68年、オーストリア帝国滅亡までのカール一世の僅か2年であり、オーストリア=ハンガリー二重帝国下のハンガリーは、実質上フランツ∙ヨーゼフ一世の時代であった。

2009年に訪れた時、マーチャース聖堂は補修工事の最中で屋外には工事関係の建物が雑然と置かれ尖塔には大がかりな足場が組み立てられていた。

補修工事の終わった2014年のマーチャーシュ聖堂  撮影:2014/04/29
補修工事の終わった2014年のマーチャーシュ聖堂 撮影:2014/04/29

正式名称「聖母マリア聖堂」がマーチャーシュ聖堂と呼ばれるのは、15世紀にマーチャーシュ一世が改築を行なったことによる。13世紀中葉に建てられた聖堂に高さ80mの大尖塔を付け加えるなどの大増築であった。その大尖塔や珍しい黒色の塔を今回は眺めることができた。

マーチャーシュ王 (在位1458 – 1490)は、ハンガリー王国の最盛期を築いた人物でボヘミア (現在のチェコ領)にも進出してボヘミア王 となったほかに、一時的ではあるが1485年にウイーンをも占領している。馬に跨る人物は、1000年頃 (1000年12月25日あるいは1001年1月1日とされる) に初代国王となりハンガリーのキリスト教化を推進したイシュトヴァーン一世である。カトリック教会では聖人に列せられ、ドイツ語読みの聖ステファンで知られる。マーチャーシュ聖堂の近辺には1000年に及ぶハンガリー王国の歴史が漂っている。

国立オペラ座の正面入口  撮影:2014/04/29
国立オペラ座の正面入口 撮影:2014/04/29

1867年成立のオーストリア=ハンガリー二重帝国では、ハンガリー国王でもあるオーストリア皇帝が軍事・財政・外交面を直轄したが、二つの国は別々の政府が統治するという新局面が生まれた。台頭する民族主義や自由主義に対処するオーストリア帝国末期の苦渋の策と言える。およそ50年の短期間のうちに、ダニューブ東岸の目抜き通りとなるアンドラーシ通りが開通し、これに沿って後に世界遺産となる建築群が創出されていった。その第一号というべき国立オペラ座の建設は1875年に始まり約10年で完成した。アンドラーシ通りの真下を1896年開通の地下鉄が走る。

オペラ座の内部に置かれた設計者イブルの像  撮影:2014/04/29
オペラ座の内部に置かれた設計者イブルの像 撮影:2014/04/29

大理石の柱が林立するオペラ座の中に設計者イブル(Miklos Ybl, 1814 – 1891)の銅像があった。ブダペスト生まれのイブルは、ウイーンで学んだ後さらにドイツやイタリアで研鑽を積み、当時のヨーロッパ建築界を代表する人物となった。故郷に出来たオペラ座は彼の代表作とされている。必要な財源は皇帝フランツ∙ヨゼーフ一世とブダペスト市が負担したとされている。イブルの像の近くには、1887年から 1891年まで音楽監督を務めたグスタフ•マーラーの銅像もあった。

オペラ座の観客席  撮影:2014/04/29
オペラ座の観客席 撮影:2014/04/29

収容人員1261名のオペラ座はその比類なき音響効果で知られる。音大生らしき案内嬢はステージ横の貴賓席を指さしながら、来臨したフランツ∙ヨゼーフ一世が途中で退席したという逸話を披露して、ウイーンのオペラ座を凌駕する出来ばえに気分を悪くしたのではなかったでしょうかと誇らしげに微笑んだ。

オペラ座内部の天井を飾るフレスコ画  撮影:2014/04/29
オペラ座内部の天井を飾るフレスコ画 撮影:2014/04/29

オペラ座はロービーや階段など至る所にハンガリーの芸術家たちによる天井画や彫刻を配している。内部装飾の圧巻は観客席の頭上にある天井画である。オリンポス山に集まるギリシャ神話の神々を描いたフレスコ画で、3トンを超えるシャンデリアがこれを照らし出している。ドイツ生まれながらブダペストでで活躍したロッツ ( Karl Lotz, 1833 - 1904)の作品である。ブダペスト以外にウイーンでも絵画の研鑽を積んだ芸術家で、死去に際しハンガリーより国葬の礼を受けた。

オペラ座の座席の下に見える空調設備  撮影:2014/04/29
オペラ座の座席の下に見える空調設備 撮影:2014/04/29

優れた音響効果からも推測できるように、オペラ座は豪華な内部装飾だけでなく設計上の創意工夫が散見される。回り舞台や水圧を利用したせり上がり舞台のほかに座席の下に空調用の風穴が残っている。地下から氷の冷気を循環させるための設計であったという。

オペラ座入口にある作曲家リストの像  撮影:2014/04/29
オペラ座入口にある作曲家リストの像 撮影:2014/04/29

オペラ座入口の右横にハンガリーを代表する作曲家リスト (Franz Liszt, 1810 – 1886)の像がある。ハンガリーの慣習に従って姓を先にしてLiszt Ferencと彫り込まれている。左横には、ハンガリーオペラの父でオペラ座の初代音楽監督を務めたエルケル(Ferenc Erkel,1811 - 1893)の像もあった。オペラ座の完成によってブダペストはウイーンと競合する音楽都市として躍り出た筈である。

宿泊したホテルの大ロビー  撮影:2014/04/28
宿泊したホテルの大ロビー 撮影:2014/04/28

二泊したブダペストのホテルは国立オペラ座の近くにあった。1896年開業というからオペラ座完成の12年後になる。当時の名はGrand Hotel Royal Budapestで、映画の上映などの文化活動の場を提供し、ハンガリーの作曲家バルトーク (Bela Bartok, 1881 – 1945) はここで演奏会を開いた。第二次大戦直後はソヴィエトの占領下で事務所用の建物となるが、1953年にホテル業務を再開する。1956年の火災の後に大幅な改築が行われ、歌手のマリオ•デル•モナコやエリザベート•シュワルツコップ、ヴァイオリン奏者のイゴール•オイストラックらの名前が宿泊記録に名を連ねるようになり文化の香りが戻ってくる。老朽化により1991年に一旦営業を停止しているが、1997年からCorinthia Hotel Budapestとなっている。

ダニューブ川東岸に建つハンガリー国会議事堂  撮影:2014/04/29
ダニューブ川東岸に建つハンガリー国会議事堂 撮影:2014/04/29

ハンガリーにとって国会議事堂の建設は、新たに獲得した自治を象徴する一大事業であった筈である。その建設は国立オペラ座の完成後すぐに始まり20年を要して完成した (1885 – 1905)。公募によって、ハンガリア人シュテインドレ (Imre Steindle, 1839 - 1902) の設計が選ばれた。尖塔が立ち並ぶネオ•ゴシック様式の建物は、中央にある96mの高さのルネッサンス様式のドームを挟んで左右対称となっている。96という数字は、ウラル地方からの遊牧民がハンガリーの地に定着したのが896年とされていることから選ばれたもので、この年から数えて1000年となる記念すべき時期は二重帝国時代となっていたことになる。

聖イシュトヴァーンの王冠を警護する兵士たち  撮影:2014/04/29
聖イシュトヴァーンの王冠を警護する兵士たち 撮影:2014/04/29

議事堂内中央のドーム部分に到達すると、そこに収められた王冠や王笏などを兵士が厳重に警護していた。そのあたりは写真厳禁で遠くから恐る恐る撮るほどの厳重な雰囲気であった。王冠は、前述したイシュトヴァーン一世がハンガリー王国を建国した 時より代々の王が継承してきた国宝である。

国会議事堂内の議場  撮影:2014/04/29
国会議事堂内の議場 撮影:2014/04/29

ドームを挟んで二つの議場があるが、現在のハンガリーは一院制であるので、その一つが観光客用に公開されている。議長席の後方は過去の王家の紋章や絵画で装飾されている。立法府の国民議会は386人の定員を4年毎に選出する。議会は5年の任期を有する大統領を選出し大統領が首相を任命する。大統領は儀礼的な職務のみ遂行する象徴的な元首である。

国会議事堂前の広場にあるラーコーツィ二世の銅像  撮影:2014/04/29
国会議事堂前の広場にあるラーコーツィ二世の銅像 撮影:2014/04/29

国会議事堂前の広場にラーコーツィ二世 (Francis Rakoczi, 1676 – 1735) の銅像があった。ハプスブルグの絶対主義支配に反対してハンガリー人の自由を求めて起こった18世紀初頭の反乱の中心人物である。ラーコーツィの独立戦争ともよばれるこの反乱は、150年後の二重帝国による自治の獲得それから凡そ100年後の1979年のハンガリー共和国の誕生につながる民族運動である。議事堂前にラーコーツィ二世の銅像を置いて国民的英雄を讃えている。

国会議事堂の傍にある旧法務省 (民族誌博物館)  撮影:2014/04/29
国会議事堂の傍にある旧法務省 (民族誌博物館) 撮影:2014/04/29

国会議事堂前の大きな広場の周りには幾つもの壮麗な建物が並んでいる。その一つに民族誌博物館があり議事堂内見学の入場券を販売していた。議事堂の設計の公募で惜しくも次点になった設計がこの法務省の建物となり、今は民族誌博物館として使用されている。設計者ハンズマン (Alajos Hanszmann, 1847 - 1926) はブダで生まれたハンガリア人である。

一世を風靡したNew York Café  撮影:2014/04/29
一世を風靡したNew York Café 撮影:2014/04/29

旧法務省の設計者ハンズマンの手になるカフェが宿泊したホテルの近くにあった。New York Palaceという名で1894年に営業を開始したホテル内にあり、New York Caféと呼ばれて当初より大人気を博したという。大理石の柱やシャンデリアを配した内部装飾は当時世界一美しいカフェと讃えられた。米国の保険会社がハンズマンらに設計、建設を委託したのでこの名が付いた。1910年代は文学者や報道関係者の活動拠点となり、当時の最高級文芸雑誌の編集局がカフェ内にあった。同じ頃、演劇や映画関係者もにここに群がり、「カサブランカ」の監督マイケル•カーティスや「バグダードの盗賊」の監督アレクサンダー•コーダらの若き日の姿があった。今は観光客でにぎわう。

オペラ座、国会議事堂、旧法務省 (現、民族誌博物館)さらにNew York Caféなどの見事な建築群は、オーストリア=ハンガリー時代の地元の建築家や芸術家の活躍を彷彿とさせる。二重帝国時代は1906年までの僅か50年の間ではあったが、ウイーンをはじめヨーロッパ各地で研鑽を積んだオーストロハンガリー人ともいうべき人達が、台頭する民族主義や自由主義に呼応して活躍した時期に見えた。

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