東ヨーロッパ紀行

題目の選定



(7)東西ドイツ統一とベルリンの復興

二泊したベルリンの宿   撮影:2014/05/05
二泊したベルリンの宿 撮影:2014/05/05

バス旅行の第7日目は、ワルシャワからベルリンへほぼ直線的に西に行く行程であった。2002年のバス旅行は、ベルリンからワルシャワへ行く逆方向の旅程であったが、国境での長時間の検問に閉口した記憶がある。途中にポズナンという中世ポーランド王国発祥の地があり、もう一度行ってみたい古都であったが、今回は国境検問の無くなったバイパス道路を一路ベルリンへと急いだ。

国境のオーデル川を渡ると、そこはドイツ連邦共和国を構成する16州のひとつブランデンブルグ州で、ベルリンへは僅か60kmの地点である。ベルリンはブランデンブルグ州内にあるが、それ自体で独立行政市となっていて、ブランデンブルグ州の州都はポツダムである。

ベルリンが近づくにつれ、ガイドの話は1990年10月の「東西ドイツ統一」に及んだ。「ドイツ再統一」とも呼んで、プロイセン王国が主導した1871年のドイツ帝國成立にいたる「ドイツ統一」と区別される。1990年の東西ドイツ統一は、法的には、西のドイツ連邦共和国が東独の各州を編入する、あるいは、東独の各州がドイツ連邦共和国に加盟するという形を採った。バスがベルリン市内に入り、ポツダム広場からホテルに続く細い道に入った時、ガイドが、「ドイツ人の何事につけてもぶっきらぼうで、よく言えば効率的な側面を、ホテル従業員の接客態度から感じるかもしれないという」とやや慌て気味に言って話を締めくくった。すぐに感情的にならないでという助言とも文明批評とも受け取れた。ホテルに荷物をおいてもまだ近辺を散策できる時間であった。翌日の市内観光予定に入っていたが、徒歩で近くのブランデンブルク門まで行った。

ベルリン市内の交通の要衝ポツダム広場   撮影:2014/05/04
ベルリン市内の交通の要衝ポツダム広場 撮影:2014/05/04

ホテルの傍らにあるポツダム広場は、地上交通の交差路であるとともに、地下に鉄道駅(ポツダム広場駅)があって市内交通の中心である。ホテルは、写真に見える二つの高い建物群の一角にあり、通りに面して地下鉄駅への入口があった。写真の左奥に見える緑は、ティーアガルテンと呼ばれる世界一、二の広さを誇る公園の木々で、広場に直交する道を奥(北)に行くとティーアガルテンの東南端にぶつかり、その前がブランデンブルク門であった。

第二次世界大戦後のドイツは連合国の分割統治で、米国、英国、フランスによる統治地域は資本主義を名目とした西独、ソ連邦による共産主義統治を名目とする東独とに分かれた。東独のなかに孤島として浮かんだベルリンも、同じように、四か国による分割統となり、西ベルリンと東ベルリンに分かれた。西独がボンに首都をおいたのは周知のことである。

ポツダム広場は、第二次世界大戦の最後の年(1945)、連合軍の空と地上からの激しい攻撃にあって廃墟となり、加えてアメリカ軍、イギリス軍、ソヴィエト軍による東西陣営の境界部となった。1961年8月13日、午前1時11分の東独のラジオ放送は、ワルシャワ条約機構加盟国(冷戦期のソ連邦を盟主とする東欧の軍事同盟国)の見解として、社会主義体制を転覆しようとする動きを阻止するには、西ベルリン全域に対する警備を強化する必要性があると告げていた。同日の早朝、突如として西ベルリンの封鎖が開始された。増え続ける東ベルリンから西ベルリンへの市民の逃亡を阻止する東独の措置であった。

東ベルリン側の記録によると、境界部への有刺鉄線の設置から一か月の間に417人が逃亡を試み、さらに翌月の10月にも151人が境界を超えたことなっている。時の経過とともに、有刺鉄線は石やコンクリートの塀に変わり、後方にもう一つ塀が追加されて、強固な壁に変貌していく。二つの塀の間に見張り用の塔なども追加され、逃亡者が境界を乗り越えることは次第に困難となっていく。ポツダム広場の直下にある駅は利用されないまま1990年までの30年間放置される幽霊駅となった。

旧西ベルリン側からみたブランデンブルグ門  撮影:2014/05/04
旧西ベルリン側からみたブランデンブルグ門 撮影:2014/05/04

中世の城郭都市であったベルリンで、城砦の軍事的価値が薄れ周りに市街地が発達したので、この地方の領主ブランデンブルグ辺境伯 (ヴィルヘルム1世) は1734年に城郭の撤去を命じた。代わって出来たのは、市街地を取り囲み税金の徴収を目的に設置した壁で、この壁と郊外の各地に至る街道との交差点に関税門を設けた。街道の先にある都市の名を冠してブランデンブルグ門、ポツダム門などとよばれ最終的には18の門が設置された。関税門は次第に姿を消して現在は名前だけが残っているが、ブランデンブルグ門は今日まで命を長らえ、ベルリンの象徴的存在となった。門の向こう側(東側)は、「菩提樹の下」という意味の有名なウンター·デン·リンデンで、歴史的な建物が並ぶ目抜き通りである。

1961年8月13日の西ベルリンの封鎖は、東西ベルリン間をつなぐ68の道路を遮断し、その作業は午前6時頃までに完了したとされる。ブランデンブルク門の場合は、門の手前 (西側) に有刺鉄線が敷設されて人びとの往来が停止した。ウンター·デン·リンデンは東ベルリンに、ティーアガルテンは西ベルリンに所属することとなった。

ポツダム通りを出発するバスから見えたソニーセンター  撮影:2014/05/05
ポツダム通りを出発するバスから見えたソニーセンター 撮影:2014/05/05

ベルリンでの二日目の予定は、午前8時から地元のガイドによる2時間半のバスによる市内観光と、午後の自由行動の組み合わせとなっていた。ホテルを出てすぐ、ポツダム通りにあるソニーセンターとその後方にある高層のドイツ鉄道 (DB) 本社がまず目に入った。

1989年のベルリンの壁崩壊時、ポツダム広場は無人地帯と化した廃墟であった。東西再統一が成ったベルリン市では、この廃墟を4分割し開発業者に売却することが決まった。最大の地区はダイムラー·ベンツが担当し、ソニーが二番目に広い地区に、住宅、ホテル、レストラン、映画館などを有する複合商業施設を建設することになった。第三の担当者はベイシャイム (Otto Beisheim) という個人投資家で、今回のベルリンの宿は、ベイシャイムセンターと呼ばれる建物群の中にあった。

バスはまず旧西ベルリン中心街を回った後、もと来た方角に戻る形で、ティーアガルテンに入り、それを貫通する大通り(6月17日通り)を走って国会議事堂に到着した。議事堂前の共和国広場とその周辺にある政府関係の建物を見物した後、旧東ベルリンに入り、ウンター·デン·リンデンの西詰のブランデンブルグ門から始まって東詰のベルリン大聖堂までを見物した。 午後の自由行動時間には、市内循環バスを利用してペルガモン博物館に行った(別稿参照)。その後、午前中にバスで通り抜けた旧西ベルリンの中心街を歩いてから、ソニーセンターの内部を一瞥でもと地下鉄に乗ってポツダム広場駅へと急いだ。

ベルリン·フィルの本拠地フィルハーモニー  撮影:2014/05/05
ベルリン·フィルの本拠地フィルハーモニー 撮影:2014/05/05

ポツダム広場からそれほど遠くないところに、ベルリン·フィルハーモニー管弦楽団の本拠地フィルハーモニーがあった。1882年に発足したこの楽団は、第二次大戦中の停電や空襲にもめげず演奏活動を続けたことを誇りにしている。それも虚しく、フィルハーモニーの建物は1944年1月30日のイギリス軍による爆撃で焼失してしまう。爆撃後も場所を変え、ベルリン陥落(1945年5日2日)の2週間前まで、演奏会を継続したと言い伝えられている。現在の建物は、1963年10月15日に、カラヤン指揮のベートーヴェンの第九交響曲で新しい門出を迎えた。

ベルリン動物園の入口  撮影:2014/05/05
ベルリン動物園の入口 撮影:2014/05/05

ベルリン動物園は、広大なティーアガルテンの西南端に位置し、ベルリン·フィルよりも古い1844年の開園記録をもつ。ティーアガルテンの前身は貴族、王族たちの狩猟場で、「ティーア」は「動物、獣」の意である。二頭の像が門柱を背負ったユーモラスな入場口は異国情緒にあふれている。現在、総数2万を超える約1500種類の動物が飼育されており、この規模がこの動物園を世界有数のものにしている。第二次大戦中の動物園の破壊は、当時4千頭近くいた動物のうち僅か91頭が生き残ったという悲惨さであった。年間300万の入場者が訪れる名所で、近くにはガラス張りの大きな動物園駅がある。近くには鯉のぼりが高く掲揚された水族館もあったが、ちょうどこの日の端午の節句を祝っているのかどうかは知る由もなかった。

旧西ベルリンの中心街にあるカイザー·ヴィルヘルム記念教会  撮影:2014/05/05
旧西ベルリンの中心街にあるカイザー·ヴィルヘルム記念教会 撮影:2014/05/05

動物園のすぐ近くに、カイザー·ヴィルヘルム記念教会がある。教会の近くには、ヨーロッパ大陸随一と言われる百貨店 (KaDeWe) がある。教会は1888年に死去したドイツ皇帝ヴィルヘルム1世を追悼して1895年に完成した。1943年のベルリン大空襲で破壊されたが、最低限の補強をして崩れた形を残したままで保存されており、ベルリン市民はこれを虫歯に例える。その手前に出来た新しい長方形の教会の愛称はリップスティクである。この地域は旧西ベルリンの中心繁華街にあたり、戦争で破壊された百貨店はいち早く1956年に全7階の修復を終え、西ベルリンの経済復興の象徴的存在となった。屋上にあるレストランは、1996年に追加されたもので、市内を見渡しながら質のよい食事ができる。

ティーアガルテン内にある大統領官邸  撮影:2014/05/05
ティーアガルテン内にある大統領官邸 撮影:2014/05/05

旧西ベルリン中心街を一回りしてティーアガルテンに入った。中央部を横断する6月17日通りは、1953年6月16日に旧東ベルリン内で起った大衆暴動を記念するものである。暴動の発端は、予定の仕事を達成しない労働者に対して賃金カットを発表した東独政府の政策に反対する建設労働者のストライキであった。翌日にストライキ参加者は4万人に膨れ上がったが、東独の警察に加えて駐留するソ連軍兵士が鎮圧に加わり、暴動は一日で収束した。「東ベルリン暴動」と呼ばれる事件であったが、ソ連邦の軍隊が出動したことは3年後のハンガリー動乱の先例といえる。同じ頃の旧西ベルリンでのいち早い経済繁栄と対照的である。

6月17日通りの中央部に金色に輝く勝利の女神を頂いた高い戦勝記念塔がある。デンマークとの勝利を記念して1864年に建設が始まったが、完成する1872年までに普墺戦争(1866)、普仏戦争(1870) の二回の戦争にも勝利したので、結果的にこれらも顕彰する記念塔となった。これら三つの戦いは、ドイツ帝國を生み出すことになる戦争で、総称してドイツ統一戦争とも呼ばれる。プロイセン王国の国王ヴィルヘルム1世がドイツ帝國の皇帝となる(1871)。

戦勝記念塔の近くにある大統領の官邸(ベルヴュー宮殿)を眺めた後、国会議事堂前の共和国広場に到着した。

国会議事堂とその前にある共和国広場  撮影:2014/05/05
国会議事堂とその前にある共和国広場 撮影:2014/05/05

ドイツの国会議事堂の最初の建物は現在の位置に、ドイツ帝國成立後まもない1894年に完成したが、1933年2月27の夜に出火し、ヒトラー政権時代にはそのまま放置された。第二次大戦中は1943年のベルリン大空襲、1945年の市街戦で徹底的に破壊された。大規模な修復が完成して現在の姿になったのは東西ドイツ統一から10年近く経った1999年のことである。中央にガラス張りのドームが見えるが、19世紀末に最初の建物ができた時にも、同じような構造物があり時代の先端をゆく設計であった。

議事堂の屋上ドームは、議事堂内部が眼下に望めるように設計されている。議場内に天然光が降り注ぐと同時に直射日光が入らないようにガラス窓の角度が変わるように設計されている。螺旋状の通路を歩いている見学者の姿が遠目にも確認でき、午後10時まで開館して、市民に開かれた政治の象徴に努めている。議事堂前面の破風部分に「ドイツ国民のために」という標語も見える。

背後からみた国会議事堂とシュプレー川   撮影:2014/05/05
背後からみた国会議事堂とシュプレー川 撮影:2014/05/05

ベルリンはシュプレー川に沿って発達した都市で、かっての城砦や王宮、現在のベルリン大聖堂は全て中州に建てられた。

国会議事堂の近くには、旧西ベルリンを封鎖する壁が走っていた。ブランデンブルク門の西側に設置されたベルリンの壁は、ほぼ直線的に伸びてすぐ近くの国会議事堂の裏側を通り、近くを流れるシュプレー川にぶつかった。そこから方向を変え、議事堂の横を川に沿って延長され共和国広場の方角に伸びた。そのあたりでは、川を使って西側に逃れる事件が発生した。そのひとつは、1988年8月に四人の男女が川へ飛び込んだ事件で、警備員がボートで追跡したが全員なんとか泳ぎきって西側の岸にたどり着き壁を越えた。西岸にいた多数の旅行者が一部始終を見物し、たまたまそこにいた映写チームも録画に成功した。ほぼ同じ地点で、翌年の2月に三人の逃亡者が、川の東岸に敷設されていた壁を車で壊し冷たい水に飛び込んだ。二人は西に辿り着いたが、三人目は警備のボートに捕獲された。鉄条網の設置から30年にもなろうとする頃、依然として逃亡の企ては継続していた。

ドイツ連邦首相官邸  撮影:2014/05/05
ドイツ連邦首相官邸 撮影:2014/05/05

1949年5月、米英仏が統治する西独の諸州は連邦共和国臨時政府を発足させる。ソ連統治の東独にも、これに対抗するかのように、同じ年の10月にドイツ民主共和国が成立する。連邦共和国政府 は1955年に主権の完全な回復を宣言し、ドイツ連邦軍を編成して再軍備を行ない、北大西洋条約機構(NATO)にも加盟する。

現在のドイツでは、大統領は儀礼的な公務を司り、連邦首相が政務を執り行なう。国会議事堂前の共和国広場の傍に2001年に完成した連邦首相府がある。シュプレー川に沿い、ガラスを多く使った現代建築で、総面積は米国のホワイトハウスの10倍に達するという。2005年以来三期目に入ったドイツ史上初の女性首相アンゲラ·メルケルが、首相官邸の現在のあるじである。二階にある半円形の執務室が四角い枠のなかに収まっている形から洗濯機と呼ばれたり、ローマの円形闘技場コロッセウム(Colosseum)を文字ってKohllosseumとも呼ばれる。この場合の「Kohl」は前首相のヘルムート·コール (Helmut Kohl)で、彼の首相時に首相府の建設が開始された。1990年の東西ドイツ統一時の首相であり、戦後最長年の16年間(1982-1998)首相を務めた。

ベルリン中央駅の駅舎  撮影:2014/05/05
ベルリン中央駅の駅舎 撮影:2014/05/05

連邦首相府を見た後、シュプレー川に架かる橋を渡って旧東ベルリン内に入った。ウンター·デン·リンデンからそれほど遠くないシュプレー川沿いにベルリン中央駅がある。国会議事堂に近いことや、ボンから移転する政府関連施設の建設用地が確保できることから、この地にあった旧レールテ駅の跡地が選ばれた。2006年のサッカーワールドカップ大会にあわせて完成された。ベルリン市内や近郊を結ぶ路線と地下鉄路線が立体交差する設計となっている。これにより、東西冷戦下で分散していた長距離列車の発着点が統合された。因みにベルリン動物園駅は旧西ベルリン時代に中心的役割を果した駅であった。

旧東ベルリン側から見たブランデンブルグ門  撮影:2014/05/05
旧東ベルリン側から見たブランデンブルグ門 撮影:2014/05/05

ベルリン市内をながれるシュプレー川は、ベルリンの西部を北から南に流れるハーフェル川の支流である。ハーフェル川に沿う西南約30kmのところにポツダムがあり、そのさらに西方約30kmにブランデンブルグがある。ハーフェル川はブランデンブルグ州の西の州境を成すエルベ川に合流する。

ブランデンブルグ辺境伯は、ベルリン、ポツダム、ブランデンブルグを所領にし、神聖ローマ帝國皇帝にたいする選定権をもった中世の有力貴族であった(選帝侯)。ブランデンブルグ辺境伯の領地とポーランド王国の属国から独立したプロイセン公国がプロイセン王国の前身である。

プロイセン公国はバルト海の南岸にあり、ブランデンブルグ辺境伯の領地とはいえ、神聖ローマ帝國領の外にある飛び地であった。オーストリア·ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝レオポルド1世は、ブランデンブルグ選帝侯フリードリヒ3世に王号を使うことを許可した(1700年11月)。これは、スペイン継承戦争に際し、レオポルド1世に援軍を派遣することをフリードリヒ3世が約束した代償であった。フリードリヒ3世は、1701年1月、プロイセン公国の首都ケーニヒスブルグに赴き、自ら戴冠式を挙行し、プロイセン王フリードリヒ1世と称した。これ以後、ブランデンブルグ選帝侯領をはじめ、王の出身母体ホーエンツォルレン家の所領は次第に統一され、第2代 (在位:1713-1740)、特に第3代(1740-1786)の王の時代にヨーロッパの列強の地位を獲得する。第3代の王は後に大王と敬称されるフリードリヒ2世である。

第4代プロイセン王フリードリヒ·ヴィルヘルム2世(在位:1786-1797)の時代、1791年にブランデンブルグ門が完成した。高さ26mの門の上には、勝利の女神ヴィクトリアの乗った四頭立ての馬車が飾られている。

ブランデンブルグ門の上に立つ勝利の女神ヴィクトリア  撮影:2014/05/05
ブランデンブルグ門の上に立つ勝利の女神ヴィクトリア 撮影:2014/05/05

1796年のイタリア遠征を皮切りに、一時期ヨーロッパの大半を征服したナポレオンは、1806年10月27日にベルリンへ入城した。第5代フリードリヒ·ヴィルヘルム3世 (在位:1797-1840)の時代で、王とその家族は旧プロイセン公国のケーニヒスブルグに逃亡する。

ベルリンを征服したナポレオンはブランデンブルグ門の上にあった勝利の女神ヴィクトリアを戦利品としてフランスへ持ち去った。ナポレオンのロシアでの大敗を機に、1813年3月、プロイセンはフランスへ宣戦し、翌1814年に戦場はフランス国内に移り、ヴィクトリア像はパリからベルリンに戻ることになる。

建設工事で混雑するウンター·デン·リンデン  撮影:2014/05/05
建設工事で混雑するウンター·デン·リンデン 撮影:2014/05/05

ウンター·デン·リンデンは、ブランデンブルグ門に続いてパリ広場となり、大使館や一流ホテルが続く。通りの菩提樹は、もともと17世紀中葉に植樹されたものであるが、1930年代の路面鉄道の建設や第二次大戦中の戦禍で消失した。中央分離帯に現在見えるものは1950年代に植えられたものである。通りに沿って改装工事用のクレーンが右に左に林立し、菩提樹の命がまたもや危うくなりそうである。歴史遺産の多いこの地区では、道路や建物の整備はかなりの時間を要するのではないだろうか。2002年、ポツダム通りをバスで通り過ぎたとき、ソニーセンターが完成したと告げられたものの、現在のウンター·デン·リンデンのような様子であったような記憶がある。

フンボルト大学の前のフリードリヒ大王騎馬像  撮影:2014/05/05
フンボルト大学の前のフリードリヒ大王騎馬像 撮影:2014/05/05

ウンター·デン·リンデンの中間点を過ぎたあたりに、大王と敬称される第3代プロイセン王フリードリ2世 の騎馬像が建っている。騎馬像の背景にあるのはフンボルト大学である。西隣は改装工事中のベルリン国立図書館である。

啓蒙専制君主の誉れ高いフリードリヒ大王は、即位(1740)すると直ちに数々の社会改革、政治改革、軍政改革などの諸改革を行なうとともに、オペラ劇場の建設や著名な学者なども集めて、ベルリンは自由な空気の満ちた「北のアテネ」と呼ばれる都市となる。

即位から半年経った1740年12月16日、神聖ローマ皇帝カール6世の死去に乗じて、大王はハプスブルク家領に侵攻し1745年まで続くオーストリア継承戦争の口火を切る。以後も七年戦争(1756-1763)を通じてハプスブルク家の当主マリア·テレジアの生涯の宿敵となる。1772年に、第一次ポーランド分割によりポーランド王領プロイセン(西プロイセン)を獲得し、領土はさらに拡大した。大王は、学問と芸術にも造詣が深く、戦争の間や晩年はポツダムにある王宮サンスーシで、哲学者のヴォルテールとの親交を深めたりフルート演奏や著述を楽しんだと伝わる。

フンボルト大学は、1810年に言語学者ヴィルヘルム·フォン·フンボルトによってフリードリヒ·ヴィルヘルム大学として創立された。冷戦時代は王の名を嫌うソ連邦占領当局によってフンボルト大学となり、この時期、離反した教授や学生によって旧西ベルリンにベルリン自由大学が設立されている。東西ドイツ統一後は、正式名称はフンボルト大学ベルリンとなっている。

王宮の庭園であったルストガルテンと旧博物館  撮影:2014/05/05
王宮の庭園であったルストガルテンと旧博物館 撮影:2014/05/05

ウンター·デン·リンデンは、東詰のベルリン大聖堂までそれほど長くはなく、フンボルト大学のあたりから、ベルリン·ドイツ·オペラ、ベルリン国立歌劇場、コンツェルトハウス、教会などが肩をならべる。コンツェルトハウスは、ベルリンフィルに対抗して、冷戦時代の1952年に設立されたベルリン·コンツェルトハウス管弦楽団の本拠地である。

大聖堂に到達する直前にある広場は、遊歩庭園という意味のルストガルテンで、通りを挟んで反対側にあったベルリン王宮の庭園であった。庭園の奥に旧博物館が見え、その背後には三つの博物館と一つの美術館があり、庭園を含めて全てがシュプレー川の中州の上に建っている。博物館島と呼ばれる所以である。ここでも旧博物館の後方で改築工事用のクレーンが建ち並んでいるのが見えたが、午後に訪れるペルガモン博物館はそのあたりにあった。

ウンター·デン·リンデンの東詰にあるベルリン大聖堂  撮影:2014/05/05
ウンター·デン·リンデンの東詰にあるベルリン大聖堂 撮影:2014/05/05

ルストガルテンの反対側にかって存在したベルリン王宮も中州の上に建設されたものであるが、王宮の建設以前には、1310年頃に建てられた城砦があった。その頃のこの地方の都はハーフェル川沿いのブランデンブルグであり、15世紀に入ってからブランデンブルグ選帝侯がベルリン王宮の建設を始める (1443)。同じ頃に起源をもつ大聖堂であるが、現在の姿は1905年に完成したものである。第二次大戦中の爆撃でドームなどが破壊されたが大部分は生き残り、1993年に修復が終わっている。

ベルリン王宮跡地の複合文化施設の建設現場  撮影:2014/05/05
ベルリン王宮跡地の複合文化施設の建設現場 撮影:2014/05/05

ベルリン王宮はプロイセン国王に続いて1871年からはドイツ帝國皇帝の居城であった。1918年のドイツ革命で、皇帝(カイザー)位は廃され、ドイツ帝國が打倒されてからは博物館となっていた。第二次大戦中の英米軍の空襲で焼失した王宮は、1950年、東独政府によって撤去された。

東西ドイツ統一(1990)以後、幾多の議論を経て、かっての壮麗なバロック様式の王宮の外観を復元し、内部を新しい複合文化施設とすることが決定され、2013年にようやく工事が本格化した。建設現場にある青い仮設の建物はフンボルトボックスと呼ばれ、2019年に開業予定の複合文化施設についての情報提供や建築現場を見学する場を提供している。フンボルト大学の図書館を移転する案や、民俗学博物館、アジア美術館の創設など各種の案が提案されている。東西ベルリン統一から四半世紀、社会基盤の整備をほぼ終えて文化面への巨額の投資が本格化し、完成の時が待たれる。

ソニーセンターに保存されているホテル·エスペランド  撮影:2014/05/05
ソニーセンターに保存されているホテル·エスペランド 撮影:2014/05/05

ポツダム広場にあったホテル·エスペランドは、1908年開業した由緒あるホテルであった。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(在位:1888-1918)が社交の場として使った「皇帝の間」が、第二次大戦後の廃墟のなかに辛うじて残っていた。ソニーセンターの開発当初、「皇帝の間」は取り壊す予定であったが、75mの距離を移動させてソニーセンターの一部に取りこんで保存することが決まった。多額の費用をかけて1996年に移動工事を終えた。かっての社交の場はレストランの一部になったが、ソニーセンターの一角に板ガラスに囲まれて外からも見学できるようになっている。

ソニーセンターの中央広場を覆う大天井  撮影:2014/05/05
ソニーセンターの中央広場を覆う大天井 撮影:2014/05/05

ソニーセンターの中央広場の直径は100mを超え、その上を鉄とガラスでできた円錐形の大天井が広がる。モンゴル人などの遊牧民の住居であるパオ (包)が、湾曲した梁をフェルトで覆っているのに似ている。富士山を象徴するという見方もあるようであるが、シュプレー川沿いの国会議事堂の屋上ドームにも似ている。この複合商業施設は近代建築の最高峰と見做されており、開発中はヨーロッパ最大の工事現場と言われた。完成時の式典では、ソニー会長の大賀典夫がベルリンフィルを指揮した。

ソニーセンターは、完成以来、内部にある劇場や映画館を駆使してベルリン国際映画祭の主要会場となっている。地元でベルリナーレと呼ばれるこの映画祭は、カンヌおよびヴェネツィア国際映画祭と並ぶ世界三大映画祭である。冷戦時代の1951年、東独に周囲を囲まれた西ベルリンで、西側の芸術文化を誇示しようする多分に政治的意図があった映画祭といわれる。西独の諸州が連邦共和国臨時政府を発足させた頃にあたる。

2014年、ベルリナーレの一般入場券の発売は35万枚を突破した。カンヌ、ヴェネツィアに比べれば圧倒的に多数の来場者を誇り、これを支えるこの都市の着実な社会基盤の成長を物語っている。

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